光清寺通信 山河大地

第78号  2025年7月

 




 これは今年の法語カレンダーの6月の言葉です。皆さんはこれを見てどのような感触を抱かれたでしょうか。私は最初はつまらないことを言っているなあと感じました。出遇ったものによって人生が決まるというのはアキラメ主義的で投げやりな生き方のようにも受け取れるからです。与えられた境遇に甘んじるのではなく、悪戦苦闘し努力して人生を切り開くべきだと。多くの人は実際、そうやって生きています。ところが必死になって頑張って生きていく中で報われることもあれば報われないこともある、その果てに人や言葉に出遇うということがあるのではないでしょうか。私はこの言葉を眺めていてそのような深みのある言葉だと思いました。「決定する」とは単に決まるというよりも、本当に安心できる方向が定まったという意味だと思います。どれほど回り道をして努力を積み重ねても、良き出遇いによってこそ本当の人生の意味と価値が見出され、すべてが報われる世界があることを語っているのだと思いました。





   エゴイストと言われたこと

 歳を重ねてくると意識の深いところに長く眠っていた、忘れていた記憶がよみがえってくることがあります。私の五十年くらい前の出来事ですが、たぶん中学校一年生のときのことだったと思います。何が原因だったのか定かではありませんがクラスの中である問題が起こり雰囲気が少しおかしくなったことがありました。担任の先生は、これはクラス全体の問題だとしてクラス会を開き、これをみんなで考えようとしました。誰も発言もせず長い沈黙の時間だけが流れていく中で私は手を挙げて発言しました。
 どのようなことを自分が言ったのか覚えていません。今にして思えば、自分には何が問題なのかわからないので自分には関係ない、みたいなことを言ったのかも知れません。そのとき担任の先生は笑いながら私に「そういうのをエゴイストと言うのです」と言いました。もちろん私は何も言い返すことができず黙り込んでしまいました。
 エゴイストとは利己主義者、自己中心の人、自分さえ良ければいい人という意味は当時の私でも理解できました。しかし子供であった私が先生から言われたのは、おまえは利己主義者だという意味にとどまらず、あってはならない最低の人間だと言われたように感じました。そしてエゴについていろいろ説明していたことをただぼう然と聞いていたことを思い出します。私はなぜエゴイストだと言われなければならないのか、自分はそんな人間ではないという思いとともに腹立たしさを感じました。そして同時に、エゴイストは人間のクズであり最低最悪の人間で、自分がエゴイストなんて言われるのは許せない、という思いを強くしました。当然その担任の先生は大嫌いでした。
 私はたまたま仏教の方向に進み、大人になって仏教を学んでいく中でエゴイストは本当に最悪の人間なのか、という疑問を心のどこかで考えるようになりました。十年くらい前に「自己チュー」という言葉がよく言われていましたが、これはあまりに身勝手で回りの人のことを考えない人のことを悪く言う言葉で、非常識な言動をするから自己中なのです。家族や自分自身のことを大事に考える人をふつう悪い人とは考えません。突き詰めて考えると人間はみんな基本的に自分を中心にして生きているのであって、そのことを悪く考える必要などないのです。
 ある経典にこのような話があると知りました。お釈迦様の教えをよく聞く王様と王妃様がいました。王妃は、自分はお釈迦様の教えを本当にいい教えだと思っていつも聞いているが、あるときに一つの疑問が生まれてきました。聞いた教えを自分自身の中に当てはめて、いろいろと考えを廻らしているときに、自分にとって最も大事なものは何だろうかという疑問です。そして出てきた答えは、最も大事なものはこの自分ではないか、ということでした。王様にそのことを相談すると王様も、自分もそのように思うと言い、このことはぜひお釈迦様にお尋ねしてみようと言いました。そしてお釈迦様に聞くと、人はみな自分自身こそもっとも愛(いと)しいものであると答えられ、そして他の人も自分がもっとも愛(いと)しい故に他の人をも害してはならないと言われ、これが仏教が不殺生を説く理由ともなったのです。
 仏教の教えの基本は縁起(えんぎ)ということです。縁起とは縁(よ)って起(お)こるということで、あらゆる事物は関係性の中にあるということを示しています。愚かな人は、自分は回りの人とは関係はなく自分さえ良ければいいと考えますが、その結果として信用を失い友を失い、孤独の苦しみを受けることになります。仏陀の教えは、人間は縁起存在であるから関わりにおいてある自分を大事に考える、それは同時に関わりのある相手のことも大事にする、そこに共感できる豊かで幸せな世界が展開することを明らかにします。
 私は、人間は基本的に誰もが自己チューでありエゴイストであっていいと思えるようになりました。ただしそれは関わりを切り離した自分ではなく、さまざまな関係を生きる私であることを見据えて、その中で自分の好きなこと、やりたい目的に向かって突き進んで生きていくことが人間の幸せなのであろうかと思います。