光清寺通信 山河大地

第77号  2024年11月

 




 「思い通りになったら幸せで、思い通りにならなかったら不幸ですか、どうですか、私なんか思い通りにならないことばかりだったけど自分のことを不幸だとは思っていません」。ある法話の中で講師は語っていました。私はそうだなとうなずいていました。ふつうの日常生活がとくべつ問題なく過ごせているとき、とくにそのことに幸せとか感謝の気持ちが出てくることはふつうありません。でも災害などでそれらを失ってしまった方は、普通の生活がどれほど有り難いかを知らされたと言います。仕事がうまくいくことを誰もが願っているに違いない、家族や仕事仲間との人間関係も問題がない方がいいに決まっている、病気やケガもせず健康であるならば言うまでもないのでしょう。しかしそのように思い通りにはなかなかならないのが現実だと言えます。そのときにそれを不幸であり、情けないことであり嫌なことだと逃げたり否定したりしても、苦が軽くなるわけでもありません。むしろそういうときこそ前向きに生きることの大切さが現れるのではないかと思います。「人は試される」のは何が試されるのか、たぶんそこに人格や人間性というものが試され、そこが勝負のしどころなのではないかと思いました。





    聖徳太子と親鸞聖人

 日本の歴史の中で最も有名な人の一人に聖徳太子があげられます。かつて一万円札は聖徳太子でした。四〇年ほど前に福沢諭吉に変わり、お札のサイズがちょっと小さくなったことにより、それをきっかけにしてお財布を買い換えた人もいるのではないかと思います。
 聖徳太子(574~622)は飛鳥時代、今から一四〇〇年くらい前の人で、奈良の法隆寺や大阪の四天王寺がゆかりの寺として有名です。少し前に学校の歴史教科書から聖徳太子の名前が消えるかも知れないというニュースが出ました。聖徳太子は捏造された人物像であり、厩戸王(うまやどのおう)と言うべきだという歴史学者の主張により話題になりましたが、最終的には聖徳太子に戻されました。
 大谷派のお寺の本堂は、中心に阿弥陀如来の立像、その右側には親鸞聖人の絵像、左側には蓮如上人の絵像、そしてその親鸞聖人のさらに右側には聖徳太子、そして七高僧、蓮如上人の左側には先代住職の法名が掛けられているのが一般的です。親鸞聖人は浄土真宗の宗祖、蓮如上人は八代目の宗主で本願寺を飛躍的に発展させた再興の上人です。そして七高僧は正信偈にも出てくるように、念仏の教えを伝えたインド、中国、日本の歴代の高僧として親鸞聖人が定められた方々です。
 なぜ聖徳太子の絵像が本堂に掛けられているのでしょう。
 聖徳太子は日本に仏教を公的に受け入れた最初の人物です。太子は推古天皇の摂政として実質的な政治の頂点にいました。朝鮮半島から伝えられた仏教を学び理解しそれを受け入れようとしました。天寿国繍帳という銘文には「世間虚仮唯仏是真」とあり、世の中は虚しい仮のもので、仏法のみが真実であるという記述もあり、仏教を信奉してそれに基づいて政治を行なったのです。僧侶ではないけれども仏教思想を深く理解したことにより『三経義疏』を著し、十七条憲法を作成して、日本で初めて憲法に基づいた平和で平等な国づくりをおこないました。
 それから五百数十年後、親鸞聖人の時代には聖徳太子は観音菩薩として多くの庶民に敬われ太子信仰というものが盛んになりました。観音菩薩と勢至菩薩は真宗のご本尊である阿弥陀仏の脇士であり弥陀三尊と言いますが、脇士とは阿弥陀仏のはたらきを示すもので、観音菩薩は慈悲、勢至菩薩は智慧をあらわします。観音菩薩とは観世音菩薩とも言い、世の音を観ると書きますが、これは世の中の人々の苦しみの声を受けとめ寄り添う菩薩さまという意味で、聖徳太子はそのように人々に仰がれました。
 聖徳太子は皇太子という、支配者のトップの位置にありながら庶民に慕われ続け、世を救ってくださる救世主と仰がれていました。その原点には当時にあって外来思想である仏教への深い理解があったからです。
 聖徳太子より少し前に朝鮮半島からの渡来人によって少しずつ仏教が日本にもたらされ、仏教を受け入れるか否かについて権力者(豪族)は対立していました。肯定的なのは蘇我氏、否定的なのは物部氏で、物部氏は外国の神様(仏)が入ってくることで疫病が広まるという説を立て、両者は争いになり最終的には蘇我氏は物部氏を滅ぼし、仏教を公的に受け入れることになります。
 聖徳太子の時代は日本仏教の黎明期で、弥陀の本願とか念仏ということが出てくるにはまだまだ時間が必要でした。親鸞聖人は二十九歳で比叡山を捨てて法然上人の念仏の教えに帰依する、その決断のときに京都の六角堂に百日間お籠もりになり、聖徳太子の夢のお告げを受けて法然上人に向かったと伝えられます。そして聖徳太子のことを「和国の教主聖徳皇」つまり、日本の国のお釈迦様とも言える聖徳太子さま、という賛辞を呈しています。
 太子の十七条憲法の第五条には、力あるものの訴えは「石をもって水に投ぐるが如」く、通りやすいが、力のない弱い立場のものの訴えは「水をもって石に投ぐるに似」て、聞いてもらえない相手にされない、という現実を取り上げています。聖徳太子は仏教に基づく平和で平等な社会の実現を深く願われたのです。