光清寺通信 山河大地

      第64号  2018年8月

 



 この言葉を覚えている方はいらっしゃるでしょうか。昨年、平昌(ピヨンチヤン)オリンピックのスピードスケート500mで金メダルを取った小平奈緒さんが大事にしている言葉として紹介されました。私はそれを新聞で読んだときに何かとても大事なことを教えられたような気が致しました。前半は目の前の差し迫っている問題に全力で取り組むことを言っています。スポーツ選手ならではの覚悟でしょう。そして後半は、遠い未来の先のことまで見通して学ぶことが大切だ、と言うことでしょうか。今やるべきことに決死の覚悟で取り組む、ということが大事なことはわかると思います。しかし人生がそれだけだったら、方向性のない行き当たりばったりのものとなります。そこに人生の知恵というものの大切さが知らされます。知恵によって、それまであまり意味がないと考えていたことが、逆に大事なことであったと気付かされることもあります。学ぶことによって知恵を身につけることの大切さが述べられていると思いました。





     ブッダの教え

 最近、親しい先輩の僧侶から教えてもらった本で『ブッダが説いたこと』(岩波文庫)という本を読んでいます。スリランカの僧侶が書いた古い本で、英語圏では最良の仏教概説書といわれてきたようですが、最近になって日本語訳が出ました。その本の中に次のような言葉がありました。「仏教は悲観主義でも楽観主義でもなく、しいていえば、生命を、そして世界をあるがままに捉える現実主義である」と。この言葉は何か大事なことを言い当てているように思えて、ここに銘記したいと思いました。

 仏教という宗教とはどのようなものなのか、ということを私はいろんな場面で考えさせられます。私は寺の住職としてご門徒の皆さんとの関わり合いの中で、毎月のお参りや法事、お葬式を行うこと、つまりお経をあげることをおもな業務としてやっています。ご門徒の皆さんからすればそれがお寺さんの仕事であるということでしょう。それはそれでその通りなのですが、私自身としては「仏教とはどのような教えなのか」ということをずっと考えてきました。そしてまだまだ勉強しなければと思っていますけれども、仏教とは、あるいは浄土真宗とはどのような教えか、ということについて、法話という形で述べてきたつもりです。儀式の伝統的な形式として、漢文で書かれたものをそのまま読むのが勤行というものですが、そこには生きている人間に対しての「教え」が述べられています。そのことをわかりやすく伝えるものが「法話」です。

 仏教の言葉でよく知られているものとして「諸行無常」という言葉があります。お葬式のときに司会者が、よくこの言葉を使って語りをおこないます。命あるものは必ず終わるときがやってくるという意味で「諸行無常」というのですが、これは「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という『平家物語』の冒頭の言葉として知られています。身近な人の死という厳粛な場において、この言葉を言われると誰しも否定できない言葉として迫ってくるように思われます。しかし「諸行無常」という言葉そのものはもっと広い意味をもつ言葉なのです。

 「諸行」とは「あらゆるものは」という意味で、「無常」とは「永遠ではない」という意味です。赤ちゃんや幼児がずっとそのままの形でいるということはありません。日々刻々に成長していきます。町の風景や時代社会の状況や人の考え方も少しずつ変わっていきます。あらゆるものごとは変わる、自分自身も年々歳を取っていくし状況も変わっていく、そういうことがブッダのいう諸行無常ということだと思います。

 「変わる」というときに、そのことが自分の生活に影響を及ぼさない場合は、どのように変わっても自分とはあまり関係のない事柄なのであまり問題にはなりません。ところがそのことが自分自身に深く関わる場合は違います。

 どのように「変わる」かとは、自分にとって悪い方向に変わるか、良い方向に変わるか、のどちらかなのでしょう。自分にとって好ましくないと思われる方向に変わると、暗くなり落ち込んで元気がなくなります。それを悲観主義と言います。反対に、良いと思われる方向に変わると舞い上がっていって、自分だけは幸運な人だと考えたりします。それを楽観主義と言うのです。私たちに降りかかってくるさまざまな出来事によって、落ち込んだり舞い上がったりするのは普通の人間らしい姿である、と言うのかも知れません。ところが仏教は、すべてを「あるがままに捉える現実主義」という第三の道を説いていると言っています。

 人や事に出会うことによって何かが変わっていきます。それは良きにつけ悪しきにつけ、出会う前の自分にはもう戻れないのです。時間は元には戻らないのと同じように。

 「悪いようにならなくて良かった」とか、「思うようになれば良かったのに」といくら思ったところで、起こってきた事実はそれ以上でも以下でもありません。人間は分別によって現実を解釈するのが本能かも知れませんが、それによって自己中心的なありようが増幅され、人を傷つけたりもするのです。現実をあるがままに見定めていく、というところに仏教が教える知恵の入り口があるようです。