光清寺通信 山河大地

      第32号  2002年8月

 




  誰でも自分自身の生き方やさまざまな事の処し方については、それはながねんの私の生きてきた経験や歴史によることであるから、その人自身が最終的に下した結論について、他の人があれこれと口出しするべきではないことは言うまでもない。
 自分自身でどうしても決めることができないというのなら話は別だけど、他者として人格を尊重するというのは、その人の決断を認めてあげることから始まるように思う。そしてそのことを前提とした上で、私たちが生きている人生の事実はどうであろうか。さまざまな他者との関係の上にしか自分自身というものはあり得ないことは日常的にも気づかされることである。「いろいろとお世話になります」ということから豊かな人間関係が展開し、私自身が活性化することにもつながっていく。
 どんなことがおこっても、決して他人のせいにしない自立する自分自身は同時にまた、家族や友人や会社や仕事をつうじてのさまざまな人との関係の中でしか、本当の自分自身というものはあり得ないのであろう。私自身が生きることも死ぬことも、本当は私ひとりだけの問題ではない。



ひとつの法話

 先日、お参りに行ったところで世間話の折から、「ご院家さんにお尋ねしたいことがある」と、あらたまって質問を受けました。「仏教で『心身一如』ということばがあるそうだが、これはいったいどういう意味か」というのです。

 この方はいったい何をいきなり難しいことを言い出したことやらと思っていると、「実は‥‥」と事情を説明しはじめました。話を聞いてみると、その方のお孫さんが学校を卒業して介護の関係の仕事をするようになったらしい。そこでようやく数ヶ月が過ぎてだんだん仕事もできるようになって、さいきん一泊二日の研修合宿があって、そこで聞いたことばをお寺でいつも話を聞いているおばあちゃんに尋ねたということです。その方はいい加減なことを言うこともできないので、「今度ご院家さんが来たら聞いてみる」ということで、私の方に質問が来ました。

 介護に関わる人たちの新人の研修でどのような話がされるのか私には見当もつきませんが、おそらく仕事として介護をするということの責任とか限界とか、そして相手の人格を尊重するといういわば人間相手の仕事ですから、そういう精神的な面まで含めての研修だったのだろうと思いました。

 そこでこの「心身一如」ということばですが、親鸞聖人のお書きになったものには一度も出ていないので真宗ではあまり言わないのですが、ことば自体の意味は、心と身体とが一つの如しだから、心と身体がバラバラでないということをあらわすことばです。しかしこれだけでは何が言いたいのかさっぱりわかりません。仏教が「心身一如」というのは、私たちに心と身体がバラバラでないような生活をするべきだ、というような道徳的な教訓を垂れているのではありません。これは仏教の悟りの境地をあらわすことばですから、絶対的な平安の世界をあらわしています。そしてこれは人間には容易に到達できない世界だから、私たちにはあまり意味のないことばなのでしょうか。

 その方の話によると、介護の仕事をやっていく上での精神的な支えになるようなことばとしての一例として取り上げたのであって、「心身一如」がどのような意味あいのもとに語られたのか知る由もありませんが、各自一人ひとりがそのようなことばを見つけてください、ということらしいのです。

 そこで私が考えたことは、人間は何によって苦しむのかという問題です。仏教はもともと苦を超える道を明らかにするのが基本です。人間はさまざまことに苦しむが、いったい苦しむことの一番の原因はなにか、ということを追求していって出てきた結論は「私の思いどおりにならない」ことこそ苦の根本だったのです。つまり「私の思い」とまわりの環境が一つにならないことこそ私を苦しめる原因だったと。私たちはもっとも身近な家族や私自身の身体をも含めて、何とか思いどおりにできないものかと努力を積み重ねてきました。しかし誰でも歳を重ねてきたらだんだん自分の肉体も不自由になってきます。わりあい健康な状態で過ごしているお年寄りもいますが、さまざまな病気や傷害が次から次へと出てきて、自分の身体にまで愚痴を言わずにおれなくなるのが大半ではないでしょうか。

 愚痴は言ってもしょうがないことは誰しも頭では知っていますが、病人は病人らしくなど言われたら誰だって腹を立てます。仏教の教えは因縁、縁起の教えと言います。人間の一生が運命的なものとして、はじめから神仏などの力に支配されているということではありません。さまざまな因と縁との絡み合いによって今の私自身がある、これは誰にも文句の言いようのない私自身の生きている本当の事実です。そのことを他人と比較して自らを貶めたり、高慢になって他人を見下げたりという優越感や劣等感こそ、因縁によって生きている自分自身の内容そのものとなって次の自分を形作ります。

 「心身一如」が教えるのは、苦の原因は決して外にだけあるものではないということ。仏教は、他者との関わりにおいてある自分自身の因縁を引き受けて生きていくところにこそ、かけがえのない人生の意味が展開することを教えていると思います。