由来


 一向山光清寺は京町の裏、門司口にあり。真宗大谷派なり。元和元(1615)年豊前仲津郡馬嶽城主の臣野村河内といへるものヽ本尊を安置し、照玄法師開基すといふ。この寺もと仲津郡今井淨喜寺の末寺なりき。淨喜寺記録に、「拙寺掛所寺内企救郡小倉門司口光清寺、徳蓮寺」とせり。尚徳蓮寺の條を参照すべし。
 幕末小倉明細地図にこの寺表三十八間、裏三十間、入十七間とし、明治五年寺院本末明細帳に境内五百五十六坪七合、檀家百三十軒とせり。
 境内に畫家高木豊水の墓、弓術師清澄志随齋の墓あり。豊水は安政五年九月二十六日没し、志随齋は弘化元年十二月二十四日没せり。志随齋法號を泥浣院明信得悟居士といふ。
   [龍吟成夢]
○博勞町の角に光清寺と云ふ眞宗寺あり。此寺の門は左甚五郎の建てしと云ひ傳ふ。
  世俗言に光清寺の門で木がわるひと云ふ。
○按ずるに門の材木松なり。故に木が悪いと云ふ。
 又彫刻の龍は海濱に盬(しお)を嘗めに行きしなど云ひ傳ふ。

光清寺は今から50数年前までは現在の小倉駅近くにありました。現在の小倉駅は戦後になって新しく建造されたものです。当時、この地域の拠点となる駅を新築するにあたって、線路敷設のために広大な用地が必要となり、その計画に光清寺の境内地が該当したようです。
さまざまな交渉の末、光清寺は移転先を探し求め、現在の上富野(昭栄町・旧地名)へと、寺は墓地と共に移転しました。それは戦後まもない昭和26年の出来事でした。当時はトラックやクレーンなどはなく、物資の不足していた時代でもあり、本堂を解体して大きな材木などを馬に引かせて1年以上かかってこの移転事業を完遂したようです。
その当時の本堂は昭和初期に新築したので、まだまだ新しかったのでしょう。第二次大戦では北九州はかなりの空襲を受けたのですが、幸いにも寺にはその被害が及ぶことなく、無事に大戦を乗り越えました。その昭和初期に新築された本堂は、名古屋の著名な宮大工である伊藤平左衛門氏によるものでありました。
数年前に、当時、東京の新宿で宮大工の設計事務所を開いていた伊藤平左衛門氏が当寺に突然訪ねてきて、「祖父の造った寺をお訪ねしたい」とのことで、お話をいろいろと伺ったことでありました。もとは名古屋大学の教授でもあったそうで、宗派の中においても東本願寺の明治の建築当時の資料検証を、宗派の機関誌に連載していました。
光清寺には伊藤平左衛門氏による当時の本堂の設計図が存在します。本堂の倉庫を整理していたときに発見しました。これは貴重なものだと思いまして、また倉庫の奥深くにしまい込みました。
光清寺の始まりは1600年代初旬、現在の山門は江戸中期頃のものだそうで、龍の彫刻が山門を廻っていますが、それが左甚五郎作と伝えられています。寺の言い伝えによると、この彫られた龍が夜遅く山門から抜け出て砂津川を下って海の塩水を舐めに行くという伝説が残されていますが、まあ、不肖私のようなものが見るとそれほどたいした彫刻のようには見えませんが、山門の柱の中に隠れていてところどころで龍の姿を現しているような作品で、やや不思議な趣を感じることであります。


なお、このことは[北九州まちかど探検]のホームページに[一向山光清寺]として掲載されています。

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