光清寺通信 山河大地

第75号  2023年12月

 




 この通信を読む皆さまが、「浄土真宗とはどんな教えですか」と他人から、あるいは子供や孫から尋ねられたらどのように答えますか。うまく答えられなければ人に聞いたり、本を読んだりすることも大事です。しかし私は皆さまに浄土真宗を体感していただくことがいちばんの近道だと思います。寺の法要行事に参詣して、一緒にお勤めをして法話を聞くことで体感されてはいかがでしょうか。もちろん一回参詣すれば必ず、と言えるかどうかは何とも言えませんが・・。しかしそういうことを繰り返していくと、それぞれの人生経験と照らし合わせながらきっと親鸞聖人の教えの意味がうなずけるに違いないと思っています。今年の御正忌報恩講の法話で上に書いた言葉が取り上げられました。他人の欠点はすぐに気づくけれども、自分の欠点はなかなか見ようとはしない。他人に厳しく自分に甘いというあり方は、自己中心のわがままな姿です。いつも悪いのは相手であるという考えは対立を生み出し、孤独と不安への方向を暗示しています。そういう自分の姿を照らし出すことで立ち止まることを教えているのでしょう。






    念仏すれば救われる

 浄土真宗の教えを一言で言えば「念仏すれば救われる」ということに尽きます。『歎異抄』には「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」とあり、念仏すなわち南無阿弥陀仏と称えることが人間が救われる究極の教えだと言っています。本当にそんなことが成り立つのでしょうか。
 親鸞聖人が書かれた『正信偈』には「本願名号正定業」とあり、この言葉は『正信偈』のお勤めの始めの方に出てきます。『正信偈』は親鸞聖人が正しい仏教の教えを簡潔な表現でまとめられたものであって、その一言一句すべてが大事な言葉であり、その中でも特に大事な一句がこの言葉です。
 この漢文の一句を書き下すと「本願の名号は正定の業なり」となります。「本願の名号」とは南無阿弥陀仏のことです。「正定の業」とは正しく往生が定まるはたらきという意味です。これは、南無阿弥陀仏と称えることは私たちが浄土に往生する働きかけをいただくことであり、つまり念仏を称えれば人生ぜんたいが救われる、ということを表しています。浄土に往生する、というのは私たち現代人にはわかりにくい言葉ですが、異なる時代の中での表現として、その中身は救われるとか本当に満ち足りた思いになるという意味に考えていいと思います。
 「本願の名号」というところの「名号」とは名前のことですが、仏の名前を呼ぶというのなら阿弥陀仏とか大日如来とか薬師如来とか、これらはみな仏の名号ということですが、親鸞聖人の教えはただ仏の名前を呼んで何かをお祈りしたりお願いするのではありません。念仏は南無という言葉が付いていて、南無とは信じて敬い順うという意味であり、親鸞聖人の解釈によると南無阿弥陀仏とは、永遠の仏である阿弥陀仏を信じて敬い順いなさいという、仏様の願い(本願)であるとされています。
 つまり南無阿弥陀仏と称えることは、阿弥陀仏を信じて敬い順いなさいという仏の呼びかけを聞くことになります。仏様に向かって何かを称えるというのは、私たちの方から何かをお願いするというふうに思われがちですが、そうではなくて称えることを通して仏様の願いを受け入れることを言っています。これはなかなか常識では理解しがたい問題のような気がします。
 このことを考えている中で思い当たることがありました。それは小さい子供が「おかあさん」と呼ぶ声の意味を考えると少しわかるような気がします。それは、子供が「おかあさん」と呼ぶと母親は「はーい」とか「なあに」と何を差し置いてもすぐに応答します。ちょっと姿が見えなくなると母親を探し求めて泣き出したりします。
 多くの場合、小さい子供にとって母親の存在は絶対的なものです。子供は少しずつ成長して自我に目覚め、言葉を使うようになって自己主張をするようになります。最初は全面的に依存する無条件の愛に包まれていたのでしょうけれども、言葉によって自分というものを確認するようになります。母親の名を呼ぶことによって母親と自分との関係を確認し、その確信に支えられながら自分の人生を歩んでいくのではないでしょうか。
 人間は成長すればやがていつか自立します。いつまでも親に依存して生きていくことはできません。ところが人間は世間的に自立したとしても、生きていることの不安を完全に払拭できるものではなく、むしろ一寸先は闇という、不安だらけの人生を誰もが必死になって送っていくことになります。
 他力本願の教えは他力だからといって努力を否定するのではありません。私たちは努力してこの世の困難に立ち向かっていかなければなりません。しかし努力すればすべての問題は解決するかというとそんなことはないのであって、特に老病死という問題はどんなに努力しても自分の力では解決できません。
 不安を抱えて生きていかなければならないという人間の根本問題に対して、仏陀は念仏(仏の名)を称えることで、他力(仏の力を信じること)によって永遠なる仏陀との確信的な関係を与えようとし、それによって強くたくましく安心して生きていける人生が開かれることを教えているのでしょう。つまり念仏こそ正しく救われる仏のはたらきかけである、というのが親鸞聖人の言いたかったことではないかと思われます。