光清寺通信 山河大地

第74号  2023年7月

 




今回は「人生は宝の山である」という面食らうような言葉で始まります。そんなこと言えるわけないと思うかも知れませんし、私も自分の中からこういう言葉が出てくるとは思いません。この言葉はある先生から教えてもらったものです。そのある先生もきっと誰かから教えてもらったに違いない。そのいちばん大本にはきっと仏陀がいるのです。こういう言葉は仏陀の悟りに基づく真実の言葉であって、人間の立場からは言えないのではないかとさえ思います。仏教の伝統は言葉によって励まされ、そしてその言葉の前に立って正直に自分自身を見つめ直し、自分の本当の姿を正しく認識する、というのが親鸞聖人が教えられた方向であろうと考えられます。最後の言葉は「人がいる」と当初は書くつもりでした。ある仏教を学ぶ集まりでこの話をして、この最後はあるいは「私がいる」とする方がいいか迷っていると言うと、一人のご婦人がここは「私がいる」がいいと確信的に言ってくれました。背中を押してもらった思いを感じながらこのような言葉となりました。






 大いなる目標

 四ヶ月ほど前の話です。WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)という野球の世界大会がありました。大谷選手やダルビッシュ選手が活躍して侍ジャパンが優勝した、あの日本中が沸き上がった一、二週間の出来事です。私はテレビが放映する初戦からずっと見ていました。ヌートバーというあまり知られてない選手が一番バッターで、しかも最初の打席でヒットを打って注目されました。ヌートバー選手はカージナルスというチームのメンバーですが、父親はアメリカ人、母親は日本人で、本人は日本国籍を取ったということで日本チームのメンバーになりました。
 私はその試合中継のテレビである解説者が言っていた言葉を記憶しています。それは「このヌートバーという選手は日常の生活の中で大事にしていることが三つあるということを言っていた。一つは先輩を敬うということ、二つ目は時間を守ること、三つ目は仲間と仲良くすること。そういう選手なんですよ」と。なにかとても大事なことを聞いたような気がしてそのことが心に残っています。結果がよかったらペッパーミルを回す仕草をしてたたえ合うことを流行らせた人です。
 この解説者の話を聞いて、実力や結果によってすべてが評価される厳しいプロの世界に生きる選手なら、努力とか忍耐というような個人の能力を伸ばすことを第一に考えてよさそうなものなのに、不思議なことを言っているなと思いました。
 そして最も注目された大谷選手が大活躍したことは言うまでもありませんが、これはずっと前からも言われていましたがその礼儀正しさというか、人格的な素晴らしさが注目されていました。それは両親の家庭教育が大きく影響していることは間違いないことだとは思いますが、私はそれをもう一歩進めて考えてみたいと思いました。
 それはあるお寺の掲示板で見た言葉が関係します。それは「大きな目標をもって/歩んでいる人は/いろんな妨げにも/寛容になれる」というものです。なるほどそうだな、と私は思いました。そして大きな理想や目標をもってない自分を思い、思い通りにならない小さなことにイライラして、理想を見失っている自分の姿を思い浮かべます。
 大谷選手もヌートバー選手もたぶん野球が大好きで、いい野球をやりたいという明確な目標をもってこれまでもやってきたし、これからもやっていくに違いないでしょう。その野球を精一杯やり続けるためには、できるだけそれをさえぎられるようなことのない状況を作りたいと考えます。仲間同士であまり敵対関係を作らずに、自分の歩みに協力してくれるような人間関係を作ることが効果的です。けれどもそういうことを考えて計算してではなく、たぶん本能的ともいえる身についた習慣として、礼儀正しい行動をし、先輩を敬い仲間といい関係を作りあげてきたに違いないと思います。そういうことが、充実した練習、体調管理、前向きな精神を維持できているのではないかと思いました。
 もちろんこのようなスーパースターは身体能力だけでなくメンタルも一般人とは桁違いに優れていることは言うまでもありませんが、あえてひそかに考えていることを書いてみました。仏教が掲げる目標も遠大です。
 仏陀が悟りを開かれた内容は、人生の苦を超えていく道です。人間が生きていくならば必ず老・病・死という苦の壁にぶつかります。その苦を超える道などありえないと考えるのが常識です。しかし仏教はそのような課題を永遠の努力の果てに成り立つ難行によって克服しようとします。しかし仏陀はもう一つの道を示されました。それがお念仏という他力易行の伝統です。その教えこそ釈尊の本意であり、仏教の究極の教えだと親鸞聖人は明らかにされました。
 念仏は死後の幸福を祈る呪文と考える人もいますが、この苦に満ちた人生、不満と失意の中で終わっていく以外にない人生を、ご本尊を礼拝し念仏を称えることによって、恵まれた命そのものを喜びの人生に転換する教えなのです。
 仏を礼拝するところに開かれる新しい人生がある、というのが親鸞聖人の教えの基本だと思われます。