光清寺通信 山河大地

第72号  2022年8月

 




 本を読んでいてこういう言葉が目にとまりました。玄田有史(げんだゆうじ)という学者の言葉だそうです。背後の文脈はともかく、立ち止まって考え続けることの大事さを、「ウロウロ」することが「ただ一つ」の「大切なこと」として言っているのでしょう。自分の手に負えないような難問、どうしていいかわからない問題に出くわしたとき、どうするか。いろんな人に相談したり、尋ねたり、でも人によって答えが違ったりするものです。しかも自分自身がその当事者であるならば、その結果は全部自分に降りかかってくる、他人のせいにはできない、だってそれは自分自身のことだから・・。こんな言葉では何の解決にもならない、といって目を背けたくなるかも知れませんが、ちょっと次元の違う方向からのすぐれた智慧のような気がしてなりません。







 「当たり前」とは


 「当たり前」という言葉がこのごろ気になっています。
 「あんなひどいことをされたら、怒るのは当たり前でしょう」とか、「コロナによって当たり前の日常が一変した」というように、「当たり前」という言葉は、当然とか普通という意味であると辞書に出ています。
 以前にある法話の場で、「当たり前の反対は何でしょうか」という問いかけがありました。そうするとその講師は「それは、ありがとうです」と言われ、そのとき私は、一瞬何のことを言っているのかわからなくなった経験があります。
 よく考えてみると、ここで言われている「当たり前」とは先の用例とは少し違う言い方の中で出てきます。「相手が、親であれば子(子であれば親、上司ならば部下、友達同士でも)の私に、これくらいするのは当たり前でしょう」というように、相手の好意に敬意をはらわない言い方です。「当たり前」とは当然という意味ですから、自分を正当化しその傲(ごう)慢(まん)な姿をさらけ出すことになります。
 なぜ私たちはこのような恥ずかしい心をもっているのでしょうか。これは人間が本能的にもっている自我執着の心なのです。善悪の分別がようやくつき始めた小さな子どもでも、自我が目覚めてくると自分を悪者とされることに耐えられなくなるのです。
 人間はその反面、周りからの好意や心遣いに対して「ありがとう」と感謝する心を知っています。人の好意に対して感謝するのは人倫道徳の基本であり、「ありがとう」を基本とする生き方はとても大事なのです。そういう意味からすると「当たり前」の反対は「ありがとう」なのかも知れません。

 そのことをふまえた上で、私たちを取り巻く現実はそれほど単純ではないという現実があります。
 人の世話にもならず迷惑もかけず、すべて自分ひとりの力で生きていくと考える人もいるかもしれません。しかしそれはどうなのでしょうか。これまでの人生、そしてこれからのことを本当に丁寧に考えるならば、現実というものに対する認識が甘いと言わざるをえないと思います。
 そして考えたいのは次のような状況です。割り切った他人との関係ならばものの善悪をわりあい冷静に考えられるけど、親子や兄弟、夫婦などといった濃密な人間関係の中では、いろんな問題が絡(から)み合ってきます。単純に善悪は判断できません。割り切れない問題を私たちは抱えながら日常を繰り返しています。些(さ)細(さい)な問題から芋づる式に過去のさまざまな問題が顔を出してくることもあります。お互いに関係しあって生きている私たちには、「当たり前」とは思わないけれど「ありがとう」というふうにはスッと気持ちが動かない、という問題が日常の根底に潜(ひそ)んでいるのではないでしょうか。
 ところがそのようなことまでを見通した上での、「当たり前」・「ありがとう」という言葉の問題を提起しているのが、先の法話での問いかけであろうかと思います。

 仏教は人間の深い心を問題にします。自分でもなかなか自覚できないような深い心に、人やものごとに対して「当たり前」と言おうとする心が潜んでいる、それを煩(ぼん)悩(のう)と言います。これは自分自身に対する深い執着心です。それに対して「ありがとう」は自分のことしか考えない心とは異質の心、教えられることによって起こる心、しかもそれは自分の心として現に立ち現れるのです。それが南無阿弥陀仏というお念仏の本質ではないかと思います。それはお念仏を称えることが、私自身を導いてくださるのだという教えにつながっていきます。南無阿弥陀仏を簡単な言葉であえて言うならば「ありがとう」である、と言った人もいました。
 私たちは「ありがとう」という言葉に導かれて、自己中心な生き方から少しずつ開かれていくことを教えられているのではないかと思います。
 このお話を閉じようとしたとき小学校一年生の孫が偶然、「ありがとうは魔法の言葉です」と言いました。学校で聞いた話だそうです、まさにそのとおりだと思いました。