光清寺通信 山河大地

第71号  2021年12月

 




渡辺和子という人のことを私は少し前に知りました。昭和二年、陸軍教育総監、渡辺錠太郞の次女として生まれ、九才のときに本人の目の前で父親が青年将校たちに惨殺されました。それがあの世界大戦へとつながっていく二・二六事件でした。その悲惨な経験が後の生き方を方向づけたのか、一八才でカトリックの洗礼を受け、その系統の大学や修道院で学びを重ねてゆき、三六才という若さでノートルダム清心女子大学の学長に就任されたといいます。そしてずっと学生と関わりながらキリスト教の修道者として人生を全うされた方です。『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎)という題名の本が出ていますが、ご自身の経験の中から人生の問題を語られています。寺の住職がキリスト教の人の話を取り上げるのは変だと思う人がいるかも知れませんが、いい本は読む価値のある本だと思っています。この本もお勧めしたい本の一つです。




   やわらかい心

 晴耕雨読という言葉が気になって辞書で調べてみました。自然に逆(さか)らわない生き方とあり、晴れた日には田畑を耕し、雨の日には家にこもって読書などをして悠々自適の生活を送ることをいうとあります。そういう名前のついた焼酎もありますが、これは都会暮らしにありがちな、仕事や人間関係に煩(わずら)わされる窮屈な生き方から逃(のが)れて、自然に身を任(まか)せてのんびり暮らすという、ある種の理想的な生き方と言えるのかもしれません。しかし実際に野菜作りをやるとなるとけっこうたいへんで、自然に身を任せるなどというような悠長なものではないと、実際にやっている人は言います。
 この晴耕雨読という言葉がなぜ気になったかというと、働ける状況が整っているときは精一杯働くし、そして働けなくなったときは本を読んだりして人生のことを考えるというのはとても大事なことを言っているのではないかと思ったからです。生きている状況がどのように変わろうとも働くことの大事さと共に、学ぶことの大切さを言っています。 一年半以上にも及んでいるコロナ禍をとおして世の中の状況は大きく変化しました。その受け止めは人それぞれかもしれませんが、ただ我慢を強いられただけなのでしょうか。人生を見直す大事なチャンスをいただいたというふうに積極的に考えることも必要です。「夜は必ず明ける」ことを待ち望む気持ちはもちろんありますが、普通の日常とは晴れの日もあり雨の日もあるということを忘れてはならないのです。

 河合隼雄さんの『こころの処方箋』という古い本をときどき読んでいますが、その中で「ものごとは努力によって解決しない」という項目があります。カウンセラーである河合さんにいろんな問題をかかえて相談にやってくる人がいます。いろんな努力を重ねたけれどいっこうに解決しない、という相談を持ちかける人のことを取り上げていました。そういう人は「努力すれば必ず解決する」ということをひたすら信じて、解決しないのは努力が足りないからだとして自分を責めたり、相手や社会が悪いと決めつけたりするという傾向があると言っています。努力しても意味がないなどと言うのではありませんが、あくまで解決という結果は向こう側からやってくるものであると述べていました。

 そこで仏教の教えを尋(たず)ねていくと、お釈迦さまはお悟りを開かれて、人間の生は必ず苦を伴う、なぜ生きるところに苦があるのか、苦の正体はいったい何か、ということを深い瞑想の中から見出しました。そしてそれを超えていく法則を明らかにされたというのが縁起の道理の基本です。ふつうは苦というものは外側からやってきて私を苦しませる、だから外の状況が改善すれば私の苦はなくなると考える、けれども外の状況や他人の心は変えることなどできません。そして老病死という苦は自分自身のことなのに私の身体も思い通りにはなりません。どうしたら思い通りになって苦を取り除けるか、いくら努力しても限界があります。しかしそこには、現実が思い通りにならないことが苦を生み出しているわけだから、現実の事実は変わらないとすれば、私の「思い」の方を訂正しない限り苦はなくならないのです。そしてこんな私は嫌だと考えることがさらに私自身を不幸にしていきます。

 簡単に言えば、事実そのままの自分自身を生きていくところに苦を超える道が開かれます。もちろん実際の生活の中でずっとその考えで生きていくのは、なかなかできることではないと言われるかも知れませんが、これはものごとの道理なのです。親鸞聖人のお念仏の教えは凡夫が凡夫のままで救われていく教えで、教えを聞いてそれにうなずくときに、やわらかい心が開かれると言います。やわらかい心とは雨のときも晴れのときも、うまくいくときもいかないときも、積極的に生きていくことを生み出す智慧の心です。そういうものを尋ねていくのが聞法の歩みと言われるものなのです。
 私たちの先祖たちも時間をかけた歩みの中からそのことを求め続けたのでしょう。今のような時こそ本願の教えを大事に相続していきたいと考えます。