光清寺通信 山河大地

第70号  2021年8月

 




 「勝つことと負けないことは同じではない」という話を聞いたことがあります。普通に考えると、負けなかったら勝つのだから同じではないかと言えそうですが、そうではないと言うのです。勝つというのは、どうにかなる状況の中で頑張ったりするから勝つのであって、どうにもならない状況では初めから勝負は決まっているかのように見えます。しかしここで一つ重要なことがあります。まったく手に負えない状況下で勝つことはできなくとも、負けないということはあるのです。このコロナ禍がまさにそうではないでしょうか。三密を避けてのステイホームを続けるしかないのですが、負けない心はそこに小さな楽しみや喜びを生み出すことができます。自己満足とは普通は否定的な意味でしか使われない言葉ですが、自分の世界に満足するとは、生きていることの喜びをもたらしてくれます。何かに失敗しても成功してもそれで人生の価値が決まるわけではありません。しかしそのことをどのように受けとめるかによって、その人の人生のありようが決まってくるということも言えるのではないかと思います。




 お盆とは

 お盆とは何でしょうか。関東では七月、それ以外は八月とされていますが、これは新旧の暦の違いでそのような時期が定まったのでしょう。それと一九四五年のちょうど八月十五日に日本は降伏し、戦争が終結したことと重なって死者を思う日とされています。
 お盆を迎えると多くの人は墓参りをする、ということが日本人の精神性として今日も生きています。多くの人々はふつうは仕事など日常のことで精一杯で、死者やお墓のことなどは忘れて過ごします。それはそれで健康的なことだと私は思います。しかし一年に何回か、両彼岸と年末とお盆くらい、特にお盆は国民的な宗教的時間として根付いている習慣なので大事にしていただきたいと思います。
 そもそもお盆の由来とは諸説あるようですが、一般的なのは『盂蘭盆経(うらぼんきよう)』というお経がもとになっていると言われています。お釈迦さまにはたくさんの弟子がいて、その中でも有力な十大弟子の一人に目連尊者(もくれんそんじや)がいます。目連尊者は特に神通力に優れていたので神通第一とされていますが、その目連尊者はあるとき亡き父母に恩返しをしたいと思って、自分の神通力によって亡き父母のありようを捜しました。そうするとなんと三悪道の一つの餓鬼道に堕ちて苦しんでいる姿を目にしました。地獄・餓鬼・畜生というのが三悪道で、餓鬼道の世界ではやせ細った身体なのに腹だけが異様に膨らんでいて、口元には炎が上がっている姿が描かれています。つまり欲が深い人が堕ちる世界で、いろんなものを食べようとすると口元で炎となって消えてしまうという、満足を知ることができない世界を表します。
 そのような救われない苦しみの中にある亡き母を、何とか救いたいと思うけれどもなすすべもなく困ってしまい、最後はお釈迦さまにお尋ねしました。目連の問いかけに対してお釈迦さまは、安居の衆僧へ食べ物を寄進することを勧めたのです。
 安居とは夏の一定期間に行う仏教の研修会のことで、インドでは夏には雨季があり、雨季には植物が成長し昆虫や蛇などが路上に出てきて、出歩くことは無用な殺生をすることにもなり、この期間はあまり托鉢もせずにひたすら勉強をする習慣がありました。衆とは、たくさんのという意味で、多くの仏弟子たちは托鉢をしないので食べ物に困ります。その弟子仲間たちへ必要な食べ物を提供(布施)することが、餓鬼道で苦しんでいる母を救う方法であるというのです。仏法がより深く学ばれ、広く受け取られるために目連尊者は貢献したことによって、亡き母は救われたと言われます。『盂蘭盆経』のこの話にもとづいて、夏の時期にお盆という宗教行事が始まったようです。
 お盆は一般には先祖供養の行事であり、迎え火・送り火を焚いたり、精霊流しをして先祖の魂を迎えるとされていますが、真宗の流儀から考えると少し状況は違います。親鸞聖人の教えからすると、お盆という期間で亡き人を偲ぶことは大切にするべきことですが、魂を迎えたり送ったりするということではなく、墓参りをして、仏壇のご本尊さまに手を合わせて念仏することが大切なのです。ご先祖は迷っていないか、などと心配する人もいますが、お念仏の教えに生きた人は皆、浄土で仏さまとなっているので迷ってなどいない、むしろ迷っているのはこの世の私たちなのです。私たちこそ手を合わせて、私自身が生まれた意義と生きる喜びを見失って生きていると、案じていてくださる亡き人々を思うべきなのでしょう。
 念仏の教えは亡き人を偲ぶことをご縁として、私自身の上に生きる力を与えてくださる働きをあらわしています。『盂蘭盆経』の話から見えてくるように、亡き人をご縁としてご本尊さまに手を合わせて念仏を称えるということ、それは仏教の教えによって私自身の人生の意味が開かれていくことが願われているのです。