光清寺通信 山河大地

第68号  2020年8月

 




 寺の掲示板に何を書こうかといつも苦慮しています。いろんな仏教書の中から見つけてきた言葉を考えつつ決めることが多いのですが、今回のコロナという事態の中でこのようなことは過去にあまり例がなく、自分で考えるしかないと思いました。そういう中でこのような言葉が出てきました。「遇いがたきご縁」とは簡単に言えば、当たり前にしてきたことを見つめ直そうということです。何か新しいことを始めようというのではありません。身近なまわりの人の温かい思いを受けながら、それを忘れて別の何かを追い求めることをつい考えがちです。あれこれと思いを傾けるのは悪いことではありませんが、目の前の現実を大事にしなければ不平不満しか残りません。そのことに注目する今ではないでしょうか。





   コロナ自粛から考えてみたこと

 「新型コロナウイルス感染症」という言葉がニュースでは毎日流れていますが、私たちはまさに歴史的大事件のさなかに身を置いていると言っていいのではないかと思います。日本全国のどんな地域にあっても、そして全世界の国々でコロナの影響を受けない所はないようです。思い起こせば今年の二月頃からじわじわと感染が広り、二月下旬から全国の学校が休みになり、四月初旬に緊急事態宣言が出されて私たちの日常は大きく変わりました。
 五月末までというおよそ二ヶ月間の自粛によって終息するかと思われましたが、特にこの北九州では五月下旬から急に感染がわき起こり、小学生にまで広がったことが全国に報じられました。私たち北九州市民は重苦しさを耐えながら、一ヶ月を経てようやく少し落ち着くことができました。しかしまだまだ油断はできません。おそらく完全な終息はかなり先になるであろう、自粛によって経済的ダメージを多くの業種が受け、これからは自粛と経済の立て直しのバランスを取りながらやっていくしかない、とテレビでは言っています。経済とはお金のことであり、お金は衣食住に関わる死活問題です。こんなことはあらためて言う必要のないことですが、そのことを踏まえた上で以前にもちょっと書いたものを取り上げてみたいと思いました。
 それはかなり以前に新聞で読んだ話です。国際空港などでは麻薬の密輸を取り締まるために麻薬探知犬が働いています。こういった犬は特別な訓練を経て業務に就くようになるのですが、探知犬はハンドラーと呼ばれる税関職員とペアを組んで、多くの人が往来する空港の中で仕事をします。探知犬は静かに歩き回り、人に踏まれても吠えることもなく、オシッコもせず、人間の数千倍とも言われる嗅覚を働かせます。これは犬にとってかなりなストレスの中での作業と言えます。犬からすれば決して楽しくない仕事を続けられるのはそのあとのご褒美が待っているからだと言います。さてそれはどんなご褒美なのでしょう。
 任務が終わったらハンドラーと一定時間、必ず遊び戯れることだと言います。財欲や物欲などとはまるで無縁の犬にとっては、信頼する人とのコミュニケーションに身を任せることがストレス解消であり、それはまた最高のごちそうであり、次への活力源へとつながっていきます。
 さて、私たちにとって衣食住は大切ですが、人との関わりの大切さを考えさせられる話であると私は思いました。ところが人との関わりは大事なことですが、そこにはさまざまな問題が出てきます。苦しみ悩みの多くは人間関係の問題だと言われます。差別問題やいじめ、ハラスメント、職場の上下関係からくる人間関係の難しさに苦しみ悩むという問題はニュースでもさまざまに取り上げられています。
 人との関わりは大切なのになぜそれが苦悩の種になるか、そこにはなかなか難しい問題があるようです。ふつうは人間関係の苦しみの原因は相手にある、相手が変わってくれたならば問題は解決する、しかしそうはならないから解決しないと考えます。ところがもしかすると自分の方にも問題があるのかもしれません。あるいは信頼できる人間関係など、吹けば飛ぶようなところでしか成り立ちえないようにできているのかも知れません。「保身」とは自分がいちばん可愛いということで、自分のことを最優先にして考えるからそれは他者とぶつかってしまいます。しかし家族のような生活を共にする身近な関係においては、皆が自分のことしか考えないで生き通すならばバラバラの不幸な関係で終わってしまいます。
 お念仏を称えて信心をいただく、というのが親鸞聖人の示された道筋です。これは七五〇年の歴史をくぐって私たちの先祖の人たちの生きる灯として伝えられてきました。なぜお念仏が伝えられてきたのか、それは人生が苦しみ悩みの種が尽きないものであるとしても、私たちに生きる力と喜びを取り戻す源泉として開かれたものがお念仏の世界です。私は人と関わることの大切さと難しさをお念仏をとおして考えていきたいと思っています。