光清寺通信 山河大地

第66号  2019年8月

 



 寺の境内で掃除をしていると、前の通りから「ガランガラン、ガランガラン」と、空き缶を蹴っ飛ばす音が聞こえてきました。姿は見えませんが小学校の低学年らしい子供たちの笑い声もいっしょに聞こえました。山門の前までくると、「あっ、チコちゃん」という大きな声が聞こえてきました。普段はお寺の掲示板など、気にとめることもない小学生がこの掲示板を見たのでしょう。私としてはちょっと嬉しい気持ちになりました。実はこれを書こうとしたときにかなりためらいを感じました。一週間くらい書こうかどうしようか、自分なりにかなり迷ったのです。ちょっと大げさですけど、寺の掲示板とは仏教の教えに基づく現代に対するひとつの問いかけなのであり、ただ何かウケをねらって書いているわけではないのです。いろいろ考えた末に、この言葉は仏陀の教えの一端をあらわしていると考え、勇気を出して書きました。





    お内仏(ないぶつ)に手を合わせましょう

 「お内仏(ないぶつ)」という言葉はあまり聞き慣れないかも知れませんが、真宗大谷派では昔から伝統的に仏壇のことをお内仏と言ってきました。お寺では本堂でお参りするご本尊さまと区別して、庫裏(寺の家族が生活する場所)や門徒会館でお参りするご本尊をお内仏と言っています。つまりお内仏とは、そこに住む家族にとっての礼拝する場所をあらわしています。それを仏壇と言ってもいいようなものなのですが、厳密に言うとやはり違います。

 仏壇とはふつう、仏壇屋さんに展示しているものの中から選んで買うものですが、金色の仏壇や黒っぽい仏壇、家具調のものなど、いろんなものがあります。展示しているものの中にはご本尊様の入っているものもありますが、入ってないものもあります。つまり仏壇とはご本尊様を入れるための入れ物であって、ご本尊様そのものを示している言葉ではありません。仏壇屋さんでもご本尊様をいっしょに購入することはできますが、正式には本山である東本願寺から下付していただくものであります。

 仏壇というのはあくまでご本尊様を入れるための、お飾りの付いた立派な箱であり、私たちは箱を拝むのではありません。それに対してお内仏とは、ご本尊様を中心にして、さまざまな彫刻や飾り物、灯明や花や香、お供え物で飾られた中での、礼拝の対象を指す言葉です。お寺の本堂はそれぞれご縁のある人々がお参りするいわば公(おおやけ)の場所であり、お内仏とはそこに住む家族にとっての家庭内的な礼拝の場所という意味になります。

 ある家のご主人様が亡くなり、そこの家は実家が大谷派の門徒ということで、私の寺の方へ連絡をいただきお葬式を行いました。その家はいわゆる分家ということで仏壇がなかったので、「多くの方々は四十九日までに購入されますよ」と伝えると、その奥様は「亡くなった主人の遺影や法名には自然に手が合わされるけれど、今までご縁のない仏壇に手を合わせることができるだろうか」と言われました。私はこの言葉を聞いて、確かに言われてみればそれはその通りだとも思いつつ、私としては何か大きな課題をいただいたように思い、親鸞聖人の教えと照らし合わせながら考え続けました。そしてその方ともしばらく話し合いを続けているうちに、あるとき、「私、やはり仏壇を買います」と言ってくれました。

 私が考え続けたことのひとつに、仏前で死者供養のお経をあげるときに、果たしてその場所にご本尊様がなかったらどうであろうか、という問題です。いつも通りにお経をあげることはできても、少なくともそれは真宗の仏事ではない、大谷派の儀式とは言えない、ということになるのではないかと思いました。阿弥陀様に手を合わせて南無阿弥陀仏と称える、というのが基本中の基本であり、それを外したならば親鸞聖人の教え、仏教の教えとは関係のないものとなってしまうのです。

 それは、浄土に往生された先祖の方々も阿弥陀仏に手を合わせてお念仏を称えて、何十年かの人生を尽くされていかれたのです。私たちは人生の中でさまざまな問題を抱えながら、過去の方々が大切にしたこのお念仏を相続することが大事な意味をもたらします。そしてその証しとしての法名はご本尊様を仰ぎ見る形を示しつつ、お参りする者にも見えるようにするために、通常は仏壇の側面に置きます。これは先立った方々が、ご本尊を礼拝することを私たちに勧めていることを形に表し、私たちがお念仏を相続して、いただいた人生の意味を大切に受け取ることこそが過去の方へのご恩報謝へとつながるのです。

 空き家になった時に仏壇をどう処分したらいいか、という相談を持ちかけられることがあります。親たちが大事に礼拝してきたお内仏(仏壇)のご本尊や先祖の法名は、最後のお参りをして住職が持ち帰って処分し、空になった仏壇や道具は仏壇屋さんに頼んで処分してもらうことを勧めています。