光清寺通信 山河大地

      第65号  2018年12月

 



 沖縄で小児科病院の先生をしている人で、志慶眞文雄(しげまふみお)という方がいます。この方は親鸞聖人の教えに深いご縁があり、病院で仏教を伝える会もやっているそうです。その方が言っていました。病院で水疱瘡(みずぼうそう)になった幼児をお母さんが不安な顔で連れてきます。子供の具合を心配して、そして自分は会社を休まなければならないこともあって暗い顔つきになります。そこで先生は「お母さん、これ一生に一度のことで、この十日間は子どもと一緒にいられる貴重な時間ですよ。だからこの時間をムダにしないで、子どもと触れ合う貴重な場だと思ってください」と言うそうです。幼い頃病気して母親が寄り添ってくれた出来事は、その子が大人になっても人生を貫いて支えてくれる貴重な愛情の体験となるかも知れません。





   お寺の掲示板

 光清寺ではかなり以前から山門に「ことば」を掲示しています。道行く人がお寺の前を通りがかったときに、ふと目をこらすとそこに今までとは何か違う視点が与えられるような言葉、そういうものを提供できることを目標にしてやっています。ときどき、掲示板を見てメモをとる人を見かけることもあり、もっと何かハッとする「ことば」を提示しなければ、と常々思っています。

 少し前(8月4日)に「お寺の掲示板」という見出しで朝日新聞の記事に取り上げられていました。それは「響く金言、お寺の掲示板に熱視線」という見出しで、その掲示板に書かれていた言葉は、「おまえも 死ぬぞ 釈尊」とありました。岐阜県のお寺の掲示板で見た言葉がツイッター上で話題を呼んでいるというのです。旅行で訪れた女性がその掲示板の言葉を見て衝撃を受けて、ネットにあげると4万回以上の反響があり、「響く」、「端的で真実」などのコメントが寄せられ、「いいね」という評価が十万件を超えたと言います。

 記事によるとその女性は、6月の大阪府北部地震を体験して死を意識したといい、「生も死も平等に存在し、どちらが特別ということではない、と教えてもらったように思います」と言い、そのお寺の住職は「人生の真実のあり方を端的に教えるのが仏教。死をひとごと思いがちだが、死は誰にも平等に訪れる。そのことに目覚めることで、命や生き方を見つめ直してもらえれば」と話すと言っています。
 この記事には筆書きされた掲示板の言葉が写真付きで出ていて、私も少なからず衝撃を受けました。ちょっとここまでストレートに書く勇気はないなと思いつつ、自分なりに思ったことを述べてみようと思います。

 仏教の教えをあらわす言葉で有名なものの一つに「諸行無常」があります。これは前回の通信でも言いましたが、あらゆるものごとは永遠ではない、すべては変わり続け、いつかは終わっていくという意味です。それを自分自身のところにぐっと引き寄せていくと、「おまえも死ぬぞ」ということになります。見知らぬ他人からこんなことを言われたら、そんなこと言われる筋(すじ)合(あい)はないと、腹が立ちます。ところがお釈迦様の言葉は、深い思いやりの心と真実を見極める深い智慧に基(もと)づいて、静かに私たちに語りかけてきます。それはまた私たちの日常の意識を問いかけています。

 私の知人で胃がんになって手術を受けた人が言っていました。その人は幸いそれほどひどい状況ではなかったけれどかなり精神的なダメージを受けたようでした。あるとき私に「がんになった人が桜の花の見え方が変わる、という話を聞いたことがあるけどわかるような気がする」と話してくれました。桜の花は毎年同じように春が来て咲きます、けれど今年の桜は今まで見たものとは何か違うと感じることがあるそうです。私たちはいろんなことを考えながら生きています。誰でもいつかは必ず老病死がやってきて、それは避けられないものであることは知っていますが、自分だけは例外であるかのように考えるのです。そのことをなかなか認めたくない、しかし現実は老病死を突きつけられる、そこに苦しみの原因の本質があるのです。認めようとしない心は「おまえも死ぬぞ」という教えによって逆に翻(ひるがえ)されるということがおこります。

 仏教が大事に伝えてきたお念仏は、人間の解釈の及ばない深い智慧に満ちた世界から届けられた言葉です。それでは、その深い智慧を理解できない間はお念仏は本当にはいただけないのかというと、そうではないと親鸞聖人は言います。お念仏をいったん称えたならば、そのご縁を大切に受け取り、お念仏を称える生活とともに教えを聞くことをとおして、少しずついただいた人生の大切さに目覚めていくことができるのです。年を取ってますます味わい深い人生の意味をいただいていけるような生き方をしたいものです。