光清寺通信 山河大地

      第63号  2017年12月

 



 今年の十月中旬に、北九州の九つのお寺で組織する北九州同朋会の仏教講演会が行われました。講師に九州大谷短期大学の元学長の古田和弘先生をお招きしました。古田先生は数年前に同朋新聞で正信偈のお話を連載されたことでご記憶の方もいらっしゃるかと思います。それは東本願寺のホームページを開くと公開されているので読むこともできます。
 さて、表記の言葉は古田先生の「仏教の救いとは」というテーマの講演で語られたものです。人はどうにもならない問題を抱えて、最後の最後に「仏さまにおまかせします」と言うことがあります。それは私たちが「おまかせします」と自分勝手に言う言葉ではないのです。仏さまの方から「まかせなさい」という深い愛情に包まれていたからこそ、そのような心境になるのです。それが南無阿弥陀仏の意味であると教えられました。





   報恩講でのご法話をいただいて

 報恩講にはここのところずっと、柳川から島潤二先生を講師としてお招きしています。先生はいつも親鸞聖人の教えを身近な問題としてわかりやすく語ってくださり、私たちに深い感銘を与えてくださいます。聞いているときはナルホドそうだなあと思いながら、ノートにメモを取りますが少し時がたつとだんだんと忘れてしまって、記憶から遠ざかってしまいます。聞法とはそういうことなのかなあと思いつつ、その繰り返しの中で言葉との出会いを大切にすることなのかもしれません。

 法要でのお話の感触がまだ少し残っている数日後、ある門徒さんへ月参りにお伺いすると、体調が悪くて報恩講にお参りできなくてとても残念でした、と言われる方がいました。法要のことを話題にされるので、私はご法話の感触を何かお伝えできないかと思いながら、話をしていたのです。普段からいろんな話をされる方で、私もそれに対して率直に思ったことを言ったりもしてきました。その方はかつてひどい病気をくぐり抜けてきたせいか、何か精神的な強さというか、いつかは必ずやってくる人生の最後についてもある覚悟をもっていらっしゃるようにも感じられました。私は寺の住職として、死という問題についてはそれなりに向き合ってきたつもりでもあり、仏教は死という問題を避けることなく真っ正面から考える教えなので、そのような問題を尋ねられると率直な話をしてきたつもりです。

 病気といういことについて以前から考えていたことがあります。ある仏教の先生のお話の中で、「人間がかかる病気とは二つしかない。それは直る病気と直らない病気である。それ以外の病気はないのです。」という話がありました。直る病気と直らない病気の境界線は微妙かも知れませんが、直る病気ならばそれなりの努力をして直せばいいのです。

 問題は直らない病気です。それはずっと抱えて生きていくしかないのです。直らない病気は、その病気を抱えた身である自分を嫌わないことが大事なのです。しかしこれはなかなか困難なことです。いただいたこの身を命ある限り大切に生きていく、というのは状況によってはとても難しいことになりますが、それを受けとめて強く生きていくというのが念仏の信心の内容とも言えるのです。
 その方との雑談の中で、どんなに幸せそうに見える境遇にある人であっても、まったく問題を抱えていない人などいない、誰もが乗り越えなければならない問題を抱えながら生きているのが私たちの現実なのだ、ということを考えました。それは仏教がもともと言っているように、根本は老病死という誰一人避けることのできない問題を抱えているのが人間だからなのです。

 報恩講でのお話の中で、講師はある一人の友達の話をされました。その方は講師とほぼ同年代の同じ真宗のお寺の住職で、その方の若い頃の話を聞いたと言われました。精神的に不安定になり医者にかかっていたけれどあまりいい状況にはなかったそうです。たとえば電車に乗っていると何かじっとしていられないで、急に走り出してしまいそうな衝動が起こったりしてずいぶん辛い苦しい状況にあったといいます。
 あるときにその方は、藤代先生という当時有名な真宗の先生をお訪ねして、そのことをどうしたらいいかとお尋ねになられたそうです。先生はまず、「南無阿弥陀仏をちゃんと口に出して言いなさい、そして自分で言った南無阿弥陀仏を聞きなさい」ということが一つ、そして「念仏で助かった人の話を聞きなさい」、この二つのことを言われ、何かうなずくものがあったようです。その話を聞いて何か人生の転機が訪れて救われた、ということではありません。けれども、その教えをずっと大事に保ちながら、今日まで生きてくることができたと言ったそうです。南無阿弥陀仏を声を出して言うのを称名念仏といい、お念仏で助かった人の話を聞くのを聞法と言います。この二つこそが真宗の教えの基本なのですと講師は言われました。

 さまざまな問題を抱えながらも、投げやりになることなくいただいたこの身を大切に受けとめていくことが根本問題なのでしょう。念仏で助かった人の話を聞いて、私自身も助かっていく人生を送っていきたいと思いました。