光清寺通信 山河大地

      第62号  2017年8月

 



 本多弘之という方は私が京都の大谷大学で真宗の教えを習いはじめて、たまたま出会った先生です。本多先生は現在も宗派関係の中でご活躍されていて、たくさんの本も出版されています。そんな中で最近、心に残ったことばがこのことばです。いのちの尊さというのは、なかなかわかったようでわからないことですが、ひとつ言えることは、他との関係を切り離して、単独の個体として、いのちの尊さがあるのではない。人間が生きるということは他とのさまざまな因縁の上にあることであり、いいことも悪いことも全部抱え込んで生きてゆくしかない。不本意ではあってもそういう因縁を大事に生き尽くすところに、喜びもまた感じられるものであろう、というのです。そういうことをある門徒さんのお通夜の場をとおして考えさせられました。





  たましいとは

 私は昨年のいつ頃からか河合隼雄という人の本を何冊か読んでいます。河合隼雄とは臨床心理士という、いわばカウンセリングの世界の大御所のような人で、十年くらい前に亡くなられましたが、著書も多く最後は文化庁の長官も務めた有名な人です。
 その河合氏がNHKの「こころの時代」に出演されたときに、ある探検家が中南米の原住民の人を何人かポーター(荷物を運んでもらう人)に雇(やと)って、急いで動き回る旅行をしたという話を取り上げました。そしてそのポーターたちは何日かしてストライキをはじめた、それは二日間もの間、続いたと言います。賃金の問題なのか、機嫌を損ねたのか、何が問題でストライキをやるのかを問いかけても理由がよくわからなかったそうです。そうこうしていると「お前についてあまりに早く動いてきたので魂(たましい)がついて来なかったのだ。今やっと魂が来たから行こう」と言われたという話をされました。私は強く印象を受けました。

 河合氏は心理学という学問の黎明期スイスでユングという巨匠に直に師事され、その学問を日本にもたらした第一人者です。魂という非科学的なことばを使うことにためらいを感じつつも、心の問題を日本人として考えていく中で「たましい」ということばをあえて使っていこうとされたようです。人間は自分では自覚できないような深い心がある、それは日本語で魂と言ってきたものであろうということなのです。これは霊魂の存在を信じるとか信じないとかの話とはまったく違っていて、物質化したような魂のことを言っているのではありません。

 人間は勉強して働いて、お金を稼いで食べていかなければなりませんので、物質的な幸福を求めているということは事実ですが、それだけではなく精神的な存在でもあります。仏陀が言っているようにどのような人も生老病死の苦を背負って生きなければなりません。いつまでも若くありたいけれど、必ず老いていきます。いつまでも健康でありたいけれど、いつかきっと病気や障がいを抱え込んでいきます。そして生あるものは死を免れることはできない、人間は誰でも、いつまでも若く健康で生きることを望むけれども、事実は自分の思いどおりにならないという問題を抱えて生きていかなければなりません。しかしそこに実は人間が精神的な存在であることの重要なポイントがあるのだと思います。
 
 重い病気を経験して人生観が変わったという人がいます。何がどう変わったか、それまでは健康で仕事がよくできてたくさんお金を稼げることが価値ある生き方であり、そうでない生き方は無能で価値のないことだと思っていたものが、ちょっと見方が変わったと言うのです。一生懸命に働くことは大事なことではあるけれども、他人との比較や結果がたとえ悪くても、自分は自分としてできることを精一杯やっていく、それしかない、それが本当に私にとっては大事なことなんだと考えることができるようになった、と病気を通して知らされたというのです。そしてさらに、病気という嫌な出来事そのものも当人にとっては無意味ではなかったと、病気にならなければこういうことに気づかなかったかもしれないと言うのです。

 中南米のポーターが言う魂とは、自分が自分であることに立ち返る深い心を取り戻すということなのでしょう。旅を急いで駆け回るというその速さに、自分自身を見失ってしまう危険を感じ取ったのでしょうか。次から次へとせき立てられることで、立ち止まって考えることを許さない環境に身を置くことに本能的な恐怖を感じたのかも知れません。何か私たちの今日のありようが照らし出されているように思えてなりません。

 親鸞聖人は魂というような深い心が人間のどこかに備わっているとは言いません。人間は誰しも自分の目先のことしか考えない煩悩の心に振り回されて、命が終わる最後の瞬間までそれは消えることはないと言います。しかし人間の中にときおり現れる深い心は、自分が起こした心ではなく、お念仏を称えたところにたまわる心であると考えます。だから真宗では一貫して、お念仏を称えることで自分自身を大事にする心をいただいていきましょうと言ってきたのです。