光清寺通信 山河大地

      第60号  2016年8月

 



 四月に起こった熊本地震のあと、テレビで公共広告機構の映像が流れていました。歩道を歩いているサラリーマンの男性の肩と肩とがぶつかって一瞬、動きが止まります。そして

    セトモノとセトモノと
    ぶつかりっこすると
    すぐこわれちゃう
    どっちかやわらかければだいじょうぶ
    やわらかいこころをもちましょう
    そういうわたしはいつもセトモノ
                         みつを

という詩が現れてきます。
 相田みつをという人は風変わりな字体で短い詩を書いて有名な方ですが、今から二十五年前の一九九一年に既に亡くなっていたと知って少し驚きました。その人はいなくなっても人の心を動かす言葉は生き続けるのだと思いました。
 私はずっと以前に『にんげんだもの』という詩集を買いましたが、相田みつをさんのものを見ていると、どこか親鸞聖人の教えと相通ずるものがあるのではないかと感じます。寺の掲示板に書いたこの言葉はいかがでしょうか。私には心に残るいい言葉だなと思われました。





     お墓参り

 いろんな方が「お墓参りっていいですね」と言います。実際にお盆や彼岸やそれ以外のときでも寺の墓地や納骨堂に多くの方がお参りに来ています。お墓がなぜ大事かというと、それは私たちにとって身近な人のお骨を納めている場所だからです。「骨」と言わずに「お骨」と言いますが、「お」と尊称をつけるのはそれぞれの私にとって大切なもの、大切にしなければいけないものだからです。

 ある先生の法話の中で、お墓参りがなぜいいかということについて、お墓は向こうから話をしないから、と言われました。「お前、このごろぜんぜん顔を見せないじゃないか、墓参りを忘れていたんじゃないか」などと文句を言わないのがお墓なのです。お墓に向かって「お父さ~ん、ご無沙汰してました」などと声をかける人もいますが、その言葉は自分を照らし出す言葉となってかえってきます。先立った人は浄土に往生して仏さまとなっているに違いないのですが、生きている私たちの困っている問題に何らかの形で働きかけているのではないでしょうか。もっと言えば、目先の問題で困っている私たちに、お参りをすることによって、もっと別な視点から自分自身の人生を顧みるということが起こったりするのです。

 亡くなっていった方は、愛すべき残された家族にどのような願いをかけるでしょうか。親の恩を知らずに墓参りもしないなら困らせてやろうと思うでしょうか。あるいは逆に、親のことなど忘れて自分のことだけを考えて生活するのがいいと思うでしょうか。
墓参りをしないからといって子孫を困らせてやることはないと思います。では、亡き人のことをまったく忘れて生活するのが亡き人の願いとも思えません。どうしたら亡き人が喜んでくれるでしょうか。

 もちろん亡くなった人は既にこの世にはいないわけだから、喜んだり悲しんだりすることはないと言われればそれまでですが・・・。私の仏教の先生は「親孝行ということは自分のいのちの根源を求め探していく感情である」という話をされたことがあります。自分のいのちの根源にある本当の願いを明らかにすることが親孝行の本質だと言うのです。人間の本当の願い、すなわち本当に自分自身の人生を無駄にせず、大切に生きていくということが、亡き人に喜んでもらえることであるということなのでしょう。

 人間の本当の願いとは何か、これは目先にあるいろいろな願いとは違います。目先の願いとはどんな願いか、それは今の自分の思いがかなうようなことです。お金や健康問題や人間関係で困っているならば、それが解決されるような状態が私たちにとって緊急の願いです。それは解決という方向に向かって一生懸命に努力するしかないのですが、努力したからといって必ずしも好ましい結果が出るとは限らない、というのが私たちが生きている現実です。

 目先の願いではない本当の願いとは何でしょう。これはそれほど簡単にわかることではなさそうです。これですよ、と言われても、そうですか、と簡単に納得できるものではありません。その問題に悪戦苦闘して一筋の道筋を見出されたのが親鸞聖人なのです。親鸞聖人はお念仏を称えるところに人間の本当の願いを実現する道があり、そこに私たちの救われていく世界が開かれるのであると、教えられました。それはそう簡単に納得できる教えではないと思われます。しかしその教えは、教えを生きた人の経験を通した言葉をとおして、少しずつ伝わり知らされてくるという形で歴史を形成してきたのだと思います。