光清寺通信 山河大地

      第58号  2015年8月

 



 ふつう私たちは「教え」というと、たとえば「私は○○からこういうことを教えられた」ということを考えます。「人に迷惑をかけないようにする」とか、「嘘をついてはいけない」とか、「人を思いやる心を大切にする」とか。これらは生きていく上でとても大切な戒めであり教訓なのでしょう。ところが仏教の教えの本質は戒めや教訓ではありません。
 仏教の教えはこのような戒めや教訓のもうひとつ深いところにあるもの、それは現実の私自身がその戒めや教訓のように生きられれば何の問題もないのですが、そのように生きることができない現実に立たされるとき、響いてくる言葉であろうかと思われます。
 ないものねだりなんかしませんよ、という人もいるかも知れません。しかし人を羨ましく思う心は時として誰でもわき起こってきます。そして気付かないうちにそれに振り回されていくのです。周りに気を取られていると自分を見失う、という教えは、ないものねだりをやめることのできない私であることを教え、立ち返るべきは、かけがえのない身をいただいた私であることを教えられるのです。






  晩年の親鸞聖人

 浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は七五〇年余り前の鎌倉時代に、当時としては驚異的な長寿といえる九〇年の生涯を閉じられました。聖人はその主著である『教行信証(きようぎようしんしよう)』をほぼ書きあげたのが五二歳と言われています。「ほぼ書きあげた」という曖昧な表現をするのは、聖人は以後、推敲を重ね続けて吟味し、亡くなるまで手を入れられました。
 親鸞聖人はそれ以外にも多くの著作があり、七〇代後半から特に八五歳前後の晩年にも、最後に確認されるのは八八歳のときの著作も存在します。これは現代の私たちの感覚から考えてもその年齢で著作活動を行うというのはかなり驚異的なものではないかと考えられます。強靱な身体とそして類い希な精神的な強さのなせるものであろうことは言うまでもありませんが、単にそれだけの理由なのではないのです。そのことについて教えられたことがありました。

 親鸞聖人は四〇代、五〇代という壮年期、おそらく生涯の中で最も活躍できる年代を関東、現在の茨城県あたりで過ごされました。親鸞聖人は人里離れたところでひっそりと小さな庵で過ごしていたけれども、噂や評判はたちまちに広まり、多くの人びとが念仏の教えを聞きにやってきたのです。そしてその教えを深くうなずいた人を中心にして相当な数の弟子集団が形成され、四〇歳から六〇歳くらいまでの二〇年間を関東の地で過ごしました。
 しかしどういうわけか親鸞聖人は六〇代になった頃、関東から京都へ移られます。関東で多くの信奉者を得られたにもかかわらずなぜその地を去って行ったのか、さまざまな事情があったのではないかと言われていますが、明確なところはわかりません。おもな理由としては後世に残すための著作に専念するためであると推測されています。

 聖人帰京後の関東では聖人の有力な門弟によってさかんに念仏の教えが広められていきますが、教えについての理解の違いからさまざまな問題がわき起こってきます。悪人正機や他力本願という教えは、一見、分かりやすいように見えても、そのことを突き詰めて考えていくとなると、本当に人びとの生活実感のところでは身勝手な解釈が横行していたようです。聖人はお念仏の教えを分かりやすく述べた書物を書き送ったり、書簡で問いに対する応答を書くということで混乱を収めようとしますがなかなかうまくいきません。聖人はそこで長子善鸞を代理として関東に派遣しますが、うまくいかないどころか混乱は火に油を注ぐような状態になりました。結果として善鸞を絶縁しなければならないという悲しい結果をもたらします。ときに聖人、八四歳でした。

 この長男義絶という出来事は晩年の聖人を揺り動かした大きな出来事であると古来から言われてきましたが、最近になって、もうひとつ見落としてはならない要因があると言われています。それはその前後の年に続いた大規模な自然災害で、これを正嘉の飢饉と言います。正嘉元年(1257)から弘長三年(1263)までの少なくとも七年間、日本列島は大災害の影響下にあったと言われています。これは聖人八五歳から命終の翌年までのことで、関東南部に大地震が発生し、三陸沿岸には津波の被害が出ました。そしてその1257年にはインドネシアのロンボク島サマラス山で、史上最大級の火山噴火があったことが最近になって解明されました。これは過去3700年間で最大規模と報じられ、その巨大噴火の火山ガスと火山灰は太陽光を遮り、世界中に異常気象をもたらし、少なくとも二年間は甚大な影響を及ぼしたようです。異常気象による洪水、冷夏、干ばつよって作物が収穫できなくなり、飢饉が蔓延して多くの餓死者が出る、そしてその衛生状態の悪化は疫病をもたらしさらに死者が増えていく、日本の国ぜんたいが生き地獄となっていったようです。
 このような大飢饉がもたらす悲惨な状況を前にして為すすべもなく、親鸞聖人はあらためて念仏の教えに向き合われました。現実社会が突きつける極限の問いかけに対して、年老いた聖人は死力を尽くして念仏の教えを明らかにするべく、著作や書簡をとおして人びとに生きる力を取り戻すことを念じられたのであります。
 遠く年代を隔てると、言葉がどのような状況下で発せられたものであるか、わからなくなってきます。そのことをあらためて考えさせられました。



※参考文献・・大谷大学真宗学会 『親鸞教学』104号 
                   「現生正定聚と浄土の慈悲」 井上尚実