第57号 2014年12月
仏教のことを仏法とも言いますが、なぜそのような言い方をするのかというと、仏教という教えはものごとの道理を説く教えであるからです。普遍的な法則には例外はなく、あるものは必ずそのようになるという必然性をいう言葉です。物質的なものごとを扱う科学の世界ではこの法則を解明することが重要ですが、仏教は科学とは違います。
仏教が取り扱うのは喜んだり悲しんだり、どう生きていったらいいかわからなくなって苦しむ人間の問題です。これまで順調に生きてきた人が思いどおりにならない問題にぶつかったとき、うろたえ戸惑い、立ち止まって人生を考え直すことがあります。
真面目であることはこの世間において大切であることは言うまでもありません。真面目さこそ他者からの信用を獲得する根本だからです。しかしどうにもならない問題にぶつかったとき、これまでの自分の中にある選択肢そのものの転換が迫られます。
仏教が自力に対して他力をいうのはそのような問題が見定められているからであろうかと思われます。
お墓とご本尊
お墓とご本尊ということをテーマにして、今年の秋のお彼岸法要でお話ししたのですが、そのことをもう一度考えてみたいと思って取り上げることにしました。
お墓参りをするときに私たちは花や線香をあげて手を合わせます。お寺の本堂や自宅の仏壇の前でもお参りするときに手を合わせます。どちらも手を合わせるという行為の形は同じですが、その意味するところは果たして同じなのでしょうかということです。
結論を先に言っておきますと、私は同じだと言っていいと考えています。ただしお墓と仏壇とは同じものではありませんので、そこのところをどのように考えたらいいかという問題があります。
お墓は身近な親たちのお骨が納められているところなので亡き親たちのことが思い起こされるのは当然のことです。お父さんやお母さん、お爺さんやお婆さん、あるいは連れ添った伴侶、兄弟姉妹やお子さんの場合もあるでしょう。共に生活をしていた家族の死を目の当たりにして、その現実をなかなか受け入れられないという経験をもたれた方も多いことかと思います。そのような過去の出来事もやがて時間の経過とともに少しずつ薄らいできて、気がついてみればいつの間にか日常生活を取り戻していたという実感をおもちの方も多いのではないでしょうか。
「何のためにお墓参りをするのですか」と尋ねられたならばあなたは何と答えますか。「今日は亡き主人の祥月命日だから」とか「お彼岸だから」とかいうことではなくて、お墓参りをすることそのものがどういう意味をあらわす行為なのか、ということを尋ねています。これはおそらく、はっきりとしたあるひとつの目的のための行為だとは考えられないというのが本当ではないかと思われます。そのあたりをもう少し押し進めてみるとどうなるでしょうか。
お盆やお彼岸になると墓参りをする光景がテレビのニュースで流れることがありますが、必ずと言っていいほど「亡き人の冥福を祈っていました」という言葉が添えらます。これは墓参りの意味はこういうことであるという一つの解釈です。しかしそれは本当にその一言で墓参りの意味を言い当てていると言えるのでしょうか。「冥福を祈る」という言葉の意味は、亡くなった人の死後の世界での幸福を祈る、ということになりますが、本当に私たちはそのようなことを考えてそのような目的のために墓参りをしているのでしょうか。
私は少し違うのではないかと考えていますが、これは一人ひとりが自分自身のこととして考えてみる必要があると思います。そしてこれにはある決まった答えがあるということではなく、一人ひとりの宗教観が重なっている問題だと思われることなのです。
戦後くらいから一つの墓にまとめるという家の総墓が多くなってきたようです。都市部と農村部では多少の違いがありますが、土葬の頃は一人ひとりのお墓であったことは間違いありません。火葬になるのは都市では明治・大正くらいからのようですが、田舎の方にいくと昭和三十年代くらいでも土葬だったという話を聞いたことがあります。いずれにしても火葬して骨壺に入るようになってから後に「何々家之墓」が一般的になりました。
大きな霊園の一画にお墓を建立するのに、確かに「何々家之墓」としないと他との区別がつきにくいし、家の総墓だからそのようにするのは自然なことです。しかし一方で、「南無阿弥陀仏」と書かれたお墓を見かけることがよくあります。本山(東本願寺)から出ている冊子にも、真宗門徒のお墓は「南無阿弥陀仏」か「倶會一処」とするのが好ましいと書かれています。
お墓に「南無阿弥陀仏」とするのは、これは浄土真宗の本尊をあらわしているのです。ですから自宅やお寺の本尊と同じことをあらわしていて、真宗の本尊とは阿弥陀如来という仏さま、あるいは南無阿弥陀仏という仏さまの名号であると決まっています。その信仰を形であらわすとするならば、ご本尊の前で手を合わせて「南無阿弥陀仏」と称えることであり、それが親鸞聖人が明らかにした浄土真宗の教義の根本なのです。
私は「何々家之墓」という文字が悪いとは思いませんが、そこでお参りするときは冥福を祈るのではなく、南無阿弥陀仏と念仏を称えて、賜ったご縁に感謝しつついただいた自分自身を大切に受け止めていくのです。それは仏壇のご本尊と同じ世界をあらわしていると思います。
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