光清寺通信 山河大地

      第56号  2014年8月

 



 「法によって」とは正しい道理の教えを依りどころとせよという意味で、「人によらざれ」とは、人にしがみついていてはいけない、という意味です。仏陀釈尊は八〇年の生涯を閉じていくにあたって、最後の教えとしてこのような言葉を語ったと伝えられています。
 「隣の芝生は青い」ということわざがありますが、自分以外のまわりのことが気になってつい比べてみたくなるものですが、そんなことをしていては明るい心にはなれません。いい人との出会いは重要ですが、他人の人生をどこまで追い求めてもそれは他人の人生です。本当に大切にしなければならないのは自分の人生ではないでしょうか。
 仏陀はこの上なく尊い方ではありますが、仏陀自身が最後の教えとしてこのような言葉を残されたのです。







法話 いただいたご縁を大切に

 ある門徒さんの月参りのあとの雑談で、「人はみんな、生まれたときにその人の運命というようなものは決まっているのでしょうか」ということを尋ねられたことがあります。その方がなぜそのようなことを聞かれるのか、はっきりとはわかりませんが、おそらく親の生涯に思いをめぐらせてみてそのようなことを問わずにおれなかったのではないかと思われました。
 「どうなんでしょうかねえ、私もよくわからないんですが」と言いながら、頭の中では親鸞聖人の教えからすればどのようなことが言えるのだろうか、現在の自分自身はどういうふうに考えているかということを考えていました。
 「生まれたときに運命というようなものが決まっているという面も確かにありますよ」、それはつまり、男であるとか女であるとか、いくら女の人生が嫌だからといってもそう簡単に男になることはできません。あるいは自分の生まれた生活環境や時代社会は自分では選ぶことはできません。そういう意味ではある程度の運命は決まっているということもできます。
 今の日本は民主主義の世の中で、職業や結婚や生き方のすべてにわたって、他人から強制される形で生きなければならないということはなくなりました。つまりどのように生きるかは自由であり、社会も就職などの機会の均等を保証するということが言われていますが実際のところ、その自由を喜びをもって生きられるかどうかは難しいことのような気がします。
 かつて私は学生時代にある年配者から「若い人はいいなあ、いろんな可能性がある。それに比べて年寄りは先がない」と言われて、その時は優しい励ましの言葉をいただいたと思っていました。しかしそのことを自分のこととして考えてみると、いろんな可能性があることは確かに素晴らしいことかもしれないが、可能性は可能性のままでは何にもなりません。一つのものを選ぶということから物事は始まっていくのではないか、ということを考えました。ところが私の場合はどうかというと、いろんなものの中から自分の意思と判断で最適なものを選び取るというよりは、気がついてみればいつの間にかこのような自分になっていた、その時その時の状況に流された結果が今日の私であるという面が多かったような気がします。
 最初に選んだ人生の方向性をそれを最後までまったくブレずに、貫き通すことのできる人というものはめったにいないのではないかと思います。人に出会ったり影響されたり、いろんな状況の中で考えをひっくり返されたりしながら、一歩間違えば谷底へ転落してしまうような危機をくぐり抜けて生きてきた、というのが多くの人の実感だと私は思います。
 仏教は、自分の意思のみがその人の人生を決めるとは言ってないし、まわりの状況や天命のようなものもその人の人生を決めるとも言っていません。では何が人生を決めるのでしょうか。
 それはさまざま人や事と出会う縁が重要な意味をもつと思われますが、さらに重要なことはその外的な縁を受け入れる心ではないかと考えられます。どれほど素晴らしい縁があってもそれを受け入れなければ、私とは何の関係ももたないものとなります。
 「いただいたご縁を大切に」という念仏に生きられた昔の人のことばはとても大切な人生の智慧をあらわしていると思います。いただいたご縁を大切に受け入れるところに、そこにかけがえのない人生を与えられたことを喜ぶことができるということではないでしょうか。