光清寺通信 山河大地

      第55号  2013年12月

 



 この言葉は金子大栄という先生の本を読んでいて心に残ったことばです。おそらく人間は誰でも例外なく、欲望の満足を求めて生きているということは否定できないのでしょう。欲望といえば金銭欲や名誉欲など、貪欲な欲深いマイナスイメージを想像する人が多いと思います。でももっと広い意味で考えれば食欲や生命欲、あるいは幸せを願う心も欲と言えます。欲望という言葉がちょっときついなら願望と言い換えてもいいのではないかと思います。
 人間はみな生きている限り欲望の満足を求め続ける存在である、そのこと自体は別に悪いことではないのです。しかし欲望というものはこれでいいという終わりがない、本当に満ち足りるということがないということは、永久に不満のままで人生を過ごすことであり、満ち足りた喜びを得ることができないことになります。
 仏教の教えは、私たちの身の上に起こるさまざまな出来事が、思い通りになるかならないかはご縁の決めることであって、私という存在そのものがここにこうして生きていることを否定されるようなことではないと言っているのでしょう。いただいた人生のご縁を大事にすることを教えられています。







法話 本願寺の東西分派

 浄土真宗(本願寺)はなぜ東西に分かれたのか、ということを尋ねる方がいます。私は以前は徳川家康の政治的意図によって東西に分けられたと思っていました。ところが今年が教如(きようにょ)上人の四百回忌ということがあって、そのあたりの問題が注目されるようになりました。結論を先に言うと、家康の意図によって分派(ぶんぱ)されたのではなく、念仏の教えを守っていこうとする中での歴史的必然によって二つに分かれた、というのが歴史の事実であったのではないかと今日言われています。

 教如上人という方は親鸞聖人からすると第十二代目で東西に分かれた時の東本願寺の門主であり、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康という天下人と渡りあった人物です。石山合戦は織田信長が天下を取る前の最後の決戦ですが、その相手は教如の父である第十一代顕如(けんにょ)でした。当時の本願寺は戦国大名をしのぐほどの経済力や組織力をもっていました。その少し前の第八代蓮如上人の頃には一向一揆という、政治史にも残るほどの一般民衆による抗議行動がありました。蓮如上人は念仏の教えによってすべての人が救われることを説き、それは燎原の火のごとくに広がり、多くの人々の爆発的な支持を得たのです。

 織田信長は天下をとるためにはどうしてもこの本願寺を落とさなければならないと考え、現在の大阪の地にある石山本願寺と十一年間にわたる戦いを始めました。本願寺は当時、絶大な勢力を持っていましたが国を支配する大名とは違います。しかし本願寺もその教団を守るためにあらゆる手立てを尽くしました。

 信長は本願寺に対して巨額の軍資金や最後には拠点の明け渡しなど無理難題を要求し、とうとう顕如は全国の門末に檄(げき)を飛ばして応戦に備えます。当時はまだ子供だった教如は父顕如とともに長い持久戦に突入します。最後はやむなく退去となりますが、既に青年となった教如は父顕如の意向に反して石山に留まることを決意します。それは信長が和解条項をきちんと守るような人ではないから、本願寺を守るためにあくまで緊張関係を維持しようと考えたようです。意に背いたことで顕如は長男教如を勘当し、和歌山の鷺森(さぎのもり)へ本願寺を移転します(この勘当は意図的なものとも言われています)。多くの軍隊を投入した信長の執拗な兵糧攻めにとうとう堪えかねて、教如は石山の地を明け渡すことになります。このような行動は教如個人のものではもちろんなく、教如を中心とする本願寺の支持勢力がこのような方向を選んだのでした。

 教如は信長に屈服した態度を取らなかったことにより、身の危険を抱いて諸国を逃げ回りますが、やがて本能寺の変が起こり信長は自刃(じじん)し、ほどなくして顕如は勘当を解きます。そして豊臣秀吉により本願寺は京都(現在の西本願寺)へ移転し、顕如亡き後、門主を教如に認めます。ところがわずか一年足らずで秀吉は三男で十七歳の准如(じゆんにょ)を門主と命じ、教如は隠居の身となります。しかし本願寺の中には教如こそ真の門主であるとして支える支持基盤が存在し、門主としての活動を継続します。そして教如は徳川家康と親密な関係を維持していきます。

 秀吉亡き後、関ヶ原の戦いに勝利をおさめ徳川の世となりますが、家康は関ヶ原の勝因の一つに教如があるとして、その恩義に応(こた)えようとします。家康は教如を本願寺の門主の座に据えようと提案しますが教如はそれを辞退します。弟の准如を門主として支える念仏の教団の流れが既に一方にあり、教如を支持する教団が片方にあり、主導権をめぐって教団が混乱するのは教如の願うところではありません。家康は京都東六条の寺地(じち)を教如に寄進し、門徒の募財によって東本願寺が創建されました。念仏の教えを後世に相続させる願いが、織(お)りなす歴史状況の中で二つの道筋に分かれたのです。