光清寺通信 山河大地

      第54号  2013年8月

 




 私は東京に行くことはめったにないのですが、初めて東京に行ったのは三〇数年前のこと、電車の中では多くの人が本を開いている姿に驚きました。時間を無駄にしないという都会人の生活習慣なのだと思いました。最近、用事があって東京に行ったら、電車の中のほとんどの人が文庫本から携帯電話に変わっていて、なるほどと思いました。携帯電話でゲームやメールをしたり、インターネットでいろんな情報を得ているのでしょう。選挙も今年からネット解禁となり、それに関与しない人はますます時代の流れに取り残されそうな世の中ですが、どうなのでしょうか。
 人間の生活の基本は昔から衣食住と言われますが、その中心はやはり食です。学校教育の中でも体育があるならば食育も必要だ、と言っている人もいます。生きるとは食べ続けなければならないことなのです。私たちが口にする肉や魚や米や野菜は全部生きていたもの、命あるものです。その事実を見据えて「いただきます」と、手を合わせて頭を下げる生活態度が生まれたのでしょう。今、このことを大事にするべきだと思います。





法話 真宗の本尊

 家を新築したりリフォームしたときなどに、仏壇も一緒に新しいのに買い換えようかという話がときどきあります。仏壇を買うとなるとそれなりの予算も要ることなので、私の方としては何とも言いようがないのですが、我が家の仏壇を立派なものにしたいという思いは尊重すべきことだと思います。

 仏壇は真宗の本尊である阿弥陀如来様を中心に置いて礼拝すべきものであります。ご先祖の方々はどうなるかというと、中心に据えるのでなく、脇からそのご本尊を礼拝することを私たちに勧めている、という形を取るのが真宗の仏壇です。亡き父母たちも先祖の方々からいただいた仏縁によって、人生を成就していかれたのです。

 私たちにとって、本尊である阿弥陀如来と既に故人となった方々と、どちらが身近な存在かということを考えるならば、それは当然のことながら家族であった方々でしょう。亡き父や母、あるいは共に連れ添った伴侶、あるいは先立たれた子供である場合もあるでしょう。しかし既に亡くなった人は二度と帰ってくることはありません。故人となった大切な家族をどのように受け止めていくのか、そこにご本尊という問題があります。

 私たちは家族という人間関係をどのように受け止めているのでしょうか。そんなことは考えようもない、家族は家族だとしか言いようがない、という意見が多いのかも知れません。合理的な考え方から言えば、家族とは戸籍に記載されているという事実が根拠となります。しかしそのような根拠だけをもって家族と言ってみたところで、中身のある温かい関係を呼び起こすことは難しいのではないでしょうか。

 家族に限らず、私たちにとって大事な人と人との関係を考えるならば、そこには呼応の関係というものが基本にあると考えることができるのではないでしょうか。呼応の関係とは、呼べば応えるということ、それはどこにでもある、ごく当たり前の人間の関係性です。人間の出発点は赤ちゃんですが、親が名前を付けて、その名前を呼び続けることで、ああ自分を呼んでいるんだとわかったときが自分自身という意識の出発点なのではないかと思います。私が呼ばれたら返事をする、返事をしたらお母さんがそれにまた反応する、呼応という関係の繰り返しが人間の命の営みの基本なのであろうと考えられます。

 私たちは家族という不思議なご縁をいただいて、夫婦となったり、親となり子となって家族の関係を受け止め、呼べば応えるという関係の繰り返しによって自分自身を生きてきました。しかしまた同時に人間は誰もが、自分の思いのままに周りとの関係を作っていきたいという心があります。この両者のぶつかり合いの中で私たちは苦しんでいるのではないかと考えられます。

 「死があるということが、生に無限の意味を与えている」という言葉を語った方がいます。厳然たる事実としての家族の死、それは自分の思いとしてはあってはならないこと、しかしその受け止めなければならない事実は私たちに本当の人生の歩みを促しているのでしょう。

 真宗の本尊は、私たちの人生を成就する方向性を表していると親鸞聖人は教えているように思えます。本尊に向かって南無阿弥陀仏とお念仏を称えるところに、私が生きている上に起こるさまざまな出会いや別れという出来事が大事なご縁として受け止められ、そこに人生を成就する道を尋ねていこう、というのが浄土真宗の教えであると考えられます。