光清寺通信 山河大地

      第53号  2012年12月

 



 この言葉に出会ったときは率直にいい言葉だと思いました。しかしこれを掲示板の言葉にするについて少しためらいがありました。それは私にそのようなことを言う自信がないからです。あるいはそのような美しすぎる言葉を語ることに、何とも言えないいやらしさを感じてしまうからです。
 しかしこの言葉をながめながら考えたことは、「人生を終わりたい」という最後の「たい」を、自分にはできそうにはないけれど、このようなことを頭の隅っこに保てたらいいなあ、という願望であるというところでこの言葉に決めました。
 おそらくこのような言葉は時代や社会の状況、それぞれの人生の境遇を超えた、すべての人の深い願いではないでしょうか。





  法話 他力本願ということ

 「他力本願ではだめだ、自力本願で行かないといけない」というような言葉を昨今でも政治家がときどき語ります。言いたいことの趣旨はだいたいわかりますが、悪いことの譬えに「他力本願」と言うのはたぶん、難しい漢字を使ってみたいからだけなのでしょう。でもきちんと言葉の意味を考える人であればこのような言い方はしないと思います。

 仏教に縁のない人でも一般的に教養ある人ならば、他力本願が仏教用語であり、浄土真宗の教えをあらわす大切な言葉であることを知らないことはないでしょう。しかし親鸞聖人がいう他力本願ということの正しい意味は何かとなると、なかなか簡単には言うことができないような気がします。

 他力とは、他者の力、つまり自分の力ではないという意味ですが、間違った使い方としての他力本願の意味は、自分が努力するのではなく他人の力を当てにして、人まかせにしていい結果だけを横取りするようなことを意味します。そこには肯定的なプラスの意味はなくマイナスイメージを表現するにはちょうどいい言葉であると思われたのでしょう。確かに他力をふつうに考えるとそのような意味しか連想されないのかも知れません。

 何年か前に「自己責任」という言葉がよく使われました。銀行が倒産するという出来事をとおして、これからは国が預金を全部は保証しない、ということから言われはじめました。この「自己責任」は流行してさまざまなところで言われていましたが、最近はあまり耳にしなくなりましたね。なぜでしょう。

 「自己責任」とは、わざわざ人から言われなくても自分自身のことは自分が責任を取らなければならないのは当然のことで、言う必要のないことです。言う必要のないことをなぜ言ったのか。企業や組織という力の大きなものが個人という力の小さいものに対して自己責任を言うということは、相手に責任を押しつけて自分は責任がないという、責任逃れの言い訳であることに気づき始めたからではないかと思います。

 仏教では人を当てにする無責任なあり方を畜生と言いますが、それは克服しなければならない苦しみの境遇を表す言葉なのです。仏教に自業自得という言葉があるように、自分が行ったことの結果はすべて自分自身に返ってくるというのがものの道理であることを表しています。つまり業という言葉の本当の意味は、自分自身に対する責任をあらわす言葉なのです。ところがその現実があまりに過酷で厳しすぎて、その結果を自分自身が担えなさそうになったときに、人は他者なる神仏に何かを期待するのでしょう。

 親鸞聖人はそれを自力と考えました。なぜならば何かに頼ることで、この自分のままでまだまだ行くことができると思っているからです。わが身をたのみわが心をたのむことを自力と言うのです。

 他力とは何か。重い病気になった人が医者に身を預けるようなことだと言います。人や言葉というご縁に出会うことによって私自身が変わるほどの強いはたらきかけをいただくことを他力と言っているようです。

 あるいはこのようにも言えるかと思います。私たちは命ある限り自力を尽くしていくしかない、しかしまじめに働くことや、人との関わりを大事にすることや、そのことによって幸せを感じることの背後に他力という、向こう側からのはたらきかけを感じることがあるのではないでしょうか。自力の中に他力を感じる、それはお念仏の中に確かな生きる力を与えていただく原点があると伝えてきた、歴史をくぐった実感ではないかと思われます。