光清寺通信 山河大地

      第52号  2012年8月

 



 「先祖からのいただきものは、子孫への贈り物」という言葉だったら、ちょっと教訓めいていて、私にはあまりおもしろく感じられません。「・・贈り物」という言葉は、自分たちのところで食いつぶしてはいけないということだから、もちろんそれはそれで間違ってないし正しいことです。昔は家督相続ということで、家督を受け継いだものは先祖の名を汚さないように、先祖伝来の土地や財産を守って次の代に渡していく、ということが大事なことだったのでしょう。今は違います。財産は法律によって分割され、そしていつの間にかいただきものは消えていってしまうのです。

 親からいただいた財産のような形あるものは、いつか必ずなくなってしまいます。そうであるならば、もっと徹底して親や先祖からいただいた大事なものとは何だったのか。それは、なくならないものでなくてはならないと思います。私たちは知らず知らずの内に念仏のご縁によって大きなものをいただいていると言えないでしょうか。それはまた独りじめするのではなく「子孫からのあずかりもの」として大事に伝えるべきものではないでしょうか。






      法話  人は死んだら・・

 お葬式のときにかつては「忌中」という張り紙をして、その家の人が亡くなったことを周囲に知らせたものですが、最近はあまり見かけなくなったようです。この頃はほとんど葬儀場ですべて行う場合が多いし、またご近所に知らせるために自宅に張り出すと留守になることがわかってしまうから泥棒に狙われることがあるそうです。でもそれだけではなく、世代が変わり近隣の付き合いがだんだん薄くなってきたことが主な原因なのでしょう。経済的な理由も含めて最近は家族葬というような少人数のものが多くなりました。

 お葬式は基本的には公事だと私は思います。お葬式をしないのなら別ですが、簡素なものであってもせっかくお葬式をするのであれば、縁のある人々に知らせてお参りしてもらう方がいいのではないかと私は考えます。

 それはそうとして、「忌中」という言葉は「いまわしい」という意味があるので、仏教的な意味からするとお葬式を言うのにあまりいい言葉ではないように思われます。人は誰でもいつか必ず終わるべき命を生きているわけですから、人の死を忌み嫌うのではなく縁のあった人は最後のお別れのために行う大事な儀式がお葬式なのです。「忌中」という言葉の代わりに「還浄」という言葉がときどき使われています。これは「お浄土にかえる」という意味ですから「忌中」よりも仏教の教えにかなっていると言えます。しかしストレートに浄土と言われてもちょっとピンとこないのかも知れません。今はまた特に世間に受け入れられることが難しい言葉のように思います。

 お寺によくお参りされて仏教のお話を聞いてこられた方からあるとき、「浄土真宗では人は死んだら仏さまになると聞いたことがありますが、それは本当ですか」と尋ねられたことがありました。これは私たちを取り巻く社会状況の問題と真宗の教えという問題が絡み合う、なかなか答えにくい問いだと思いました。

 亡くなった人が浄土にかえるということは仏さまになるということです。親や先祖たちは念仏のご縁をいただいて浄土往生を遂げたのだから、先祖のために法事をしてやるのではなく、生きている私たちのために開かれた仏縁に会うのが法事だから、させていただくことなのだ、いただいた仏法の仕事として法事をお勤めする、というのが真宗の考え方です。

 浄土真宗の本尊は阿弥陀如来ですが、この仏さまはある誓いを立てたということが根本です。それを弥陀の本願と言いますが、そこに人間の救いを誓いました。どのように誓ったかというと、仏さまが、すべての人が阿弥陀仏を信じて南無阿弥陀仏と念仏を称えるならば、必ず弥陀の浄土に迎えとって救うと言っています。そしてもしそれが果たせないならば自分は仏にはならないというのが誓いの内容で、それを阿弥陀の本願と言います。

 阿弥陀の本願は念仏するものを救うというのですが、念仏を称えるというのは南無阿弥陀仏と自らの口で声に出して称えることです。たったのこれだけの行為をすることで救うと言うのですから、これはいつでも誰でもどこにいても、どれほど忙しい人でもできない人はいない、ほとんど無条件のような条件なのです。しかし念仏を称えたくらいで救われるとはとうてい信じられないのが私たちなのです。

 親鸞聖人は仏教の教えを深く問い返しました。親鸞聖人は比叡山で二〇年もの間、難行苦行の自力修行にいそしんだにもかかわらず、そのことによって救いも悟りも見いだせず、生きるべき方向性をも見出すことができなかったのです。そして法然上人という、念仏によって既に救われている人に出遇うことができました。法然上人も実は親鸞聖人と同じように自身の救われる道を求めて比叡山で長い間悪戦苦闘を続けた方だったのですが、最後は念仏の教えを見出して山を降りたのです。親鸞聖人はこの出遇いによって、阿弥陀の本願を依りどころとして生きていくという、人生の方向性が決定し、そのことを説き広められたのです。

 なぜ阿弥陀仏が、念仏を称えるものを救うという本願を立てたのかという理由は容易にはわかりません。しかし私たちは好き嫌いや自分の都合で生きていますが、それに固執しそれを依りどころにして生きていくならば苦を深めるしかないのです、だから阿弥陀の本願に依れと言っています。
私たち人間は皆、どのような生き方をしようとも、生きてきたことがよかったと言えるような、大きな課題を背負って生きているのかも知れません。だから念仏を称えて、最後は浄土に行かなければならないということが教えられているのではないでしょうか。