光清寺通信 山河大地

      第51号  2011年12月

 



 


法話  真宗の本尊 その1

 ご本尊について考えるとき、まず私たちの頭に思い浮かぶのは、大日如来や薬師如来、観音菩薩や阿弥陀仏というようなそれぞれの宗旨によって立てられている仏さまや菩薩さまではないでしょうか。本尊とは宗教的な礼拝の対象を示すことばですが、仏や菩薩を本尊とすることが仏教の教えとどのように関わるか、ということを考えてみたいと思います。
 
 仏教では最初からご本尊があったのかと言えば、実はそうではないのです。お釈迦様が亡くなられたのが紀元前四百年前後、お釈迦様が悟りを開かれたのが三十五歳で、それから八十歳で入滅されるまでの四十五年間は人々に法を説くことに人生を捧げられました。それ以後釈尊の教えは大事に伝承されていくわけですが、仏滅後約百年くらいに仏塔が建てられます。これは釈尊の遺骨を分けて納めたものでストゥーパとも言いますが、人々はそこで仏陀の教えを偲びます。ストゥーパにはさまざまな彫刻が施されていて、仏足跡や法輪を仏陀の教えの象徴とし、そこには仏像らしきものは見られません。仏教遺跡から仏像があらわれるのはそれから四,五百年後、インドの西のガンダーラ地方(パキスタン)で、おそらく西欧文化との融合によって人間の形をした仏像が現れたのです。つまり釈尊の教えを表すものの象徴が仏像であり、それがやがてご本尊となっていったということです。

 日本においては聖徳太子の時代(奈良時代)に朝鮮半島から仏教すなわち仏像や経典が伝来しますが、いったい異国の宗教である仏教が伝来するとはどういうことを意味するでしょうか。それはつまり見たこともない外国の神様と外国の思想や文化を受け入れることになります。聖徳太子は仏教への深い見識があってのことですが、その周辺の権力者にはそのような理解があったかどうかわかりません。そのようなこともあってか、後に聖徳太子一族は滅ぼされることになります。

 「仏」という文字を「ホトケ」と読むのは、熱病をもたらす野蛮な神という意味での「熱気」であるという説もありますが、人間を業の束縛から解放するという意味での「解け」であるということが語源として言われています。

 親鸞聖人の時代つまり鎌倉時代は、奈良時代そして平安時代の国家仏教が一大体制を構築していた時代であり、その既成宗教に対して新興の仏教回復運動というのが鎌倉新仏教です。法然・親鸞・日蓮・道元が有名ですが仏様をご本尊にすることは奈良・平安時代の仏教とも共通しています。親鸞聖人はそこのところをどう考えたのでしょうか。

 奈良・平安時代の仏教を聖道門と言いますが、これは出家発心して、戒律を守り学問し修業して自ら悟りを開くことを目的とする仏教です。これはお釈迦様が苦しい道を歩まれたように自分も歩み、お釈迦様が悟りを開かれたように自分も一人で悟りを開く、つまりお釈迦様という人格を追体験するような形で仏道を歩む仏教です。もちろん出家発心は仏道修行の第一条件ですから大半の一般庶民がそれに関わることはできません。親鸞聖人は出家して比叡山に登り、二十年間、学問修行に精進されますが法然上人の念仏の教えに出遇って山を降ります。

 親鸞聖人は比叡山を捨てたけれども仏教そのものを捨てたわけではなく、念仏の教えに出遇って本当の仏教を確信したのです。お釈迦様の足跡をたどってお釈迦様のごとくに修行して、自力で悟りを獲得するのが本当の仏教の道ではなく、お釈迦様が到達されたところからの説法に耳を傾けること、仏陀の説かれる教えの根本を受けとめること、そこに法然上人は念仏の教えという道筋を見出しました。

 「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」(正信偈)とは「如来、世に興出したもうゆえは、ただ弥陀本願海を説かんとなり」と読みますが、お釈迦様がこの世に現れた唯一の理由は阿弥陀仏の本願の世界を説くためであった、ということです。

 あの人のようになりたい、というような理想的な人物像を思って努力できる人は幸せと言えるかも知れませんが、それを固執すると他人の人生を生きることになります。人はみなそれぞれ与えられた環境や立場、能力は違います。私たちは見習いの期間ももちろん必要ですが、やがていつかはひとり立ちをしなければいけません。人真似ではない自分自身の生き方を見つけていかなければならないのです。

 念仏の教えとは理想的な人の跡を追い続ける教えではなく、お釈迦様の語りかけを聞いて立ち上がる教えです。お釈迦様は私たちに向かって、自分で自分をいじめたり苦しめるのではなく、この人生をいただいた尊さに気づいてほしい、そのためには阿弥陀の本願をその内容とする念仏を称えなさい、と私たちに語りかけています。