光清寺通信 山河大地

      第50号  2011年8月

 



  私は若い頃に夏目漱石の本を少し読みました。しかしあまりよく理解できないままに、我慢しながら読んだことも記憶に残っています。この言葉は『草枕』というあまり面白くない作品の冒頭の一節ですが、当時は意味も理解できないままになぜか心に残っていました。
  「智に働けば角が立つ」とは、知識を依りどころにして振りかざせば、自分は優位に立てるかも知れないがあまりいい関係にはならないということ。「情に棹させば流される」とは、川で舟を浮かべて進めるために川底に棹をさして押す、その川底が人情であれば棹をさしても払われて流されてしまうことがある。つまり人情を依りどころにしておっては自分自身を見失うことになる。そして「意地を通せば窮屈だ」とは、他人の意見を聞かずに自分の意地を通して思い通りに生きていくことはできないことはない、しかしそれは自分自身を閉ざし、周りの人をだんだん遠ざけていくことになる。そして「兎角に人の世は住みにくい」とは、どれほど上手くいっても人生は苦であることは免れない、と言っています。
 仏教は、老病死などの苦という課題を人間は皆等しく背負っている、そしてそれは超えなければならないと言っています。漱石の言葉もそれに近い意味を発信しているような気がします。







         法話  仏の名号

 浄土真宗とは「南無阿弥陀仏とお念仏を称えなさい」ということがその教えの根本であります。お念仏とはナムアミダブツと声に出して称えることです。一人でいるときも大勢でいるときも、ご本尊の前で小さい声でいいから必ず音声を発するということが大事なのです。お葬式や法事、お寺での法要でも礼拝し合掌するときは必ずナムアミダブツと声を出しなさいというのが浄土真宗の教えなのです。

 昔は、仏教の儀式がおこなわれる場面では念仏の声が聞こえていたのにこの頃はあまり聞こえなくなった、ということがときどき言われます。とくに葬儀場でお葬式をするようになってからは、シーンと静まった中で声を出すことに気恥ずかしさを感じるのか、遺族も会葬者も大半の人は黙っています。葬儀場でお葬式をすることについて、あたかも気付いてみればエスカレーターで運ばれているような感覚、自分の意思とは関係なく「させられている」という思いを抱いてしまうという人がいます。お金を払って、葬儀場という場所を借りて、司会者や係員の手助けを借りるのですが、喪主や遺族はお客様ではなく主催者です。ただしお葬式を執行するにあたっては喪主、導師、葬儀業者は協議をして、真宗の教えにかなったよりよいお葬式ができることを私は考えます。会葬者の全員もお葬式に参加して、みんなでお勤めするというのが儀式の本来の姿ですから、参加者の一人ひとりが声を出してお念仏を称えることが重要だと私は思います。

 宗教という言葉は明治時代になって新しく作られた言葉だと言われています。明治になってヨーロッパから新しい文化や思想が入ってきますが、レリージョンという英語を翻訳する日本語が見当たらなかったので、もともと仏教にあるところの「宗」という言葉と「教」という言葉をくっつけて、「宗教」という新しい言葉をそれに当てたようです。「宗」とは〈要・中心・依りどころ〉といった意味で、「教」は〈おしえ〉です。つまり「宗教」とは〈人間にとって要とされてきた教え・依りどころとなってきた教え〉という意味です。

 ここで考えなければならないことは、「宗教」の意味を〈私にとって依りどころとなる教え〉とし、そのような宗教を探し求めて比較検討した上で、真実の宗教を見定めるという考え方があります。比較宗教学という学問もありますからそれはそれで結構なことかも知れません。自分自身の依りどころとなる教えを人間の理性が判定する、というのは当然のことのように見えますが、じつはそこに大きな落とし穴があるのです。つまり私たちの依りどころとなる教えの真実か否かを理性が判定するとは、それは理性を依りどころにして宗教を見定めることになるから、宗教より上位に理性を置くことになります。それは教えを依りどころとするのではなく、理性を依りどころとする生き方であります。

 「私は依りどころなど必要ない」と考える人もいるでしょう。しかしその人が「必要ない」と言う心根には自分自身の考え(理性)を依りどころにしているのです。廣瀬杲(ひろせたかし)という先生は、人間は依りどころなくしては生きることはできない、必ず何かを依りどころにして生きている、と言っています。理性を依りどころにしたらいけないのでしょうか。

 理性すなわち自分の考えを絶対に間違いのないものとして依りどころにすると、もしそれを否定されたならば依りどころを失うことになります。依りどころを失えば私たちは生きていくことはできません。理性は間違うことがあるから依りどころにしてはならないのです。真実ではないものを依りどころにしてはならない、というのが仏陀の教えです。私たちはむしろ間違ってばかりで、間違っていたと知らされることで人間は成長するのではないでしょうか。「叱ってくれる人がいなくなったら、さがしてでも見つけなさい」という名言を聞いたことがあります。

 「宗教」とは、先祖や親たちの〈依りどころとなってきた教え〉との縁を結ぶことによって、私が出遇う教えです。私がお念仏に出遇ってその身を有り難くいただくことが宗教問題の本質です。そして自分自身を大事にいただくことができれば、念仏のご縁をつないでくださった親や先祖たちが喜ばない道理はありません。そのことを心の奥底に納得できるまで問い尽くされたのが親鸞聖人の歩みであり、教えであるのだと思います。聞法とは心の深いところに見出される疑念を明らかにし、生きてゆく方向性をいただくことであると思います。