光清寺通信 山河大地

      第49号  2010年12月

 



 今年の御正忌報恩講のご法話で、「人間は泣きながら生まれてくる」というお話がありました。自分の誕生の時のことを知っている人はいませんが、この世に人が誕生するときは泣きながら生まれてくるのです。笑いながら生まれてくる赤ちゃんはいません。お母さんのお腹の中からこの世に誕生するということは、これまで経験したことのない不安や恐怖の中に投げ込まれることでもあるのでしょう。
 しかしお母さんは赤ちゃんを全身で受けとめます。おむつが濡れて気持ちが悪いときやお腹がすいて泣くと、お母さんはすぐさまおむつを替えたりお乳をあげたりして、赤ちゃんを満足させてあげます。この世に一人で生まれ出た不安はだんだん解消され、どんなことでも受け入れてくれるお母さんや回りの人たちの愛情によって、安心感や笑顔に変わっていくというのです。
 私たちは生まれ故郷がなぜ懐かしいか、あるいは魂の故郷という言葉がなぜ人間の帰るべき世界をあらわすかというと、私のすべてを受け入れてくれたという、記憶にもない深い経験に根ざしているからだというお話でした。故郷に執着すれば現実逃避となるかもわかりませんが、魂の故郷を明確にすることはこのきびしい現実を生きる大きな支えになるはずです。合掌する後ろ姿はそのような方向性を示していると思います。







            
法話  すくい 

 真宗門徒の家でお勤めする法事は、途中に休憩をはさみながらやや長い読経が行われますが、そのあとに「御文」という短い文章を拝読します。「末代無智の在家止住の男女たらんともがらは・・」という言葉が耳に残っている方は多いと思います。その中に「一心一向に、仏たすけたまえと申さん衆生をば、たとい罪業は深重なりとも、必ず弥陀如来は救いましますべし・・」という言葉があります。これは「助かる」とか「救われる」という、人々が仏教を求めるその目的が明白に述べられている文章ですが、今回はこのことを少し考えてみたいと思います。

 仏教が言う「助かる」とか「救われる」という内容について、それはいったい具体的にどのようになることなのか、という問題を私も考えながらいろんなところで語ったりしています。浄土真宗の教えでは、念仏を称えることによって浄土往生を遂げることができる、それが「救い」であるというのですが、そのことはそう簡単に理解できない、腹に収まらないから聞法ということが伝統的に大事にされてきました。わが身に引き当てて聞き続けることで深いうなずきをいただくことを「信心」といい、信心を獲得することが浄土真宗の教えの要とされてきました。

 「助かる」とか「救われる」という言葉は、仏教や他の宗教で多く使われる言葉ですが、とくべつに宗教とは関係ない日常生活の中でも使います。普通に使う「助かる」とはどういう意味ですかと尋ねられたらどうでしょうか。ちょっと気になるので辞書(大辞泉)を見てみました。そうすると
   ① 死や危険な状態から免れる。
   ② 被害・災害などにあわなくてすむ。
   ③ 労力・費用・負担などが少なくてすむ。楽である。
という三つの意味が出て来ました。①の「死や危険な状態から免れる」というのは死にそうな状態の中で助かった、奇跡的に助かった、という意味です。②の「被害・災害などにあわなくてすむ」というのは、必ずしも危険な状態におかれたわけではないけれども一歩間違えば自分の身に降りかかるかも知れない、危険と隣り合わせだったけれども自分は大丈夫だったことを、助かった、ということです。つまりこの①と②はいずれも危険な状態という事実の中であったか、あるいはそのように自分が感じたかという違いこそあれ、危なかったけれども危険を免れたということになります。

 ③の「労力・費用・負担などが少なくてすむ。楽である」というのは、「手伝ってくれるので助かる」、「物価が安くて助かる」というように比較的軽い意味での「良かった」ということになります。

 私たちの日常生活の大半はいつも危険な状態にされされているわけではありません。やっといい天気になったとか寒くなったとか、四季の移ろいの中に年月の経過を感じながら日々を送るのが私たちの暮らしです。あるいは休む暇もなく仕事に追われるだけの毎日という方もいますが、そのような変化の少ない私たちの日常の中にあって、実は不安という深い闇が潜んでいるのでしょう。そのことから目をそらさずに凝視し、人の生き死にの場で念仏は相続されてきました。

 忙しくて走り回っている人も、退屈な一日を生きている人も、昨日のような今日があり今日のような明日がやってくるだろうと、繰り返しの毎日の中で、生死無常はじわじわとあるいは唐突にやってきます。あるいはそのことを充分に予感しているつもりであっても予想外の形でやってきます。

 二年ほど前にこの通信で、親鸞聖人の教えとは「たすかりようのない身が、たすかるような身になって、たすかるのではない。たすかりようのない身のままに、たすかっていく道である」と書いたことがあります。最近、そのことをある一人の方が憶えていてくださって、心に残った言葉であることを私に伝えてくださいました。

 医者から見離されるような不治の病にかかる可能性は誰にでもあります。もし自分がそのような状態になったならば人生に希望を失い、落胆するに違いないと思います。これを書いている私自身もそれを乗り越えきれる自信などまったくありません。しかし「たすかりようのない身のままに、たすかっていく道」があるという教えとは、もしかすると思ってもみない形で大きな心の支えになるかも知れません。

 「助かる」ことが宝くじに当たるような偶然ならばそれは私たちの「救い」にはなりません。そうではなくて「必ず弥陀如来は救いまします」とは必然の道理をあらわす言葉です。そのような確信に満ちた教えの言葉を灯火として、繰り返してたずねていこうというのが真宗の教えの伝統なのです。