光清寺通信 山河大地

      第48号  2010年8月

 



 真宗の勤行で使われる「正信偈」の言葉の意味を尋ねられました。この言葉の意味は、「お釈迦さまがこの世に出てこられた唯一の目的は、弥陀の本願を説くためであった」ということです。「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」という漢文を書き下したのが上の言葉です。
 お釈迦様がこの世に出てこられた真の目的は何か、ということを出世の本懐と言います。かつて城山三郎という作家に「男子の本懐」という本がありました。それは浜口雄幸という日本の総理大臣の話で、国家の財政を立て直すことに自らの人生を賭けたという物語です。小説の題名となった「本懐」という仏教用語は少し知られるようになりました。
 お釈迦さまは菩提樹の下で自ら悟りを開かれましたが、私たちはお釈迦様のように修行して悟りを開くことなどできません。むしろお釈迦さまと同じような苦労をしても迷うばかりだから、お釈迦さまの話を聞いてその教えに従いましょう、と親鸞聖人は言っています。
 親鸞聖人は、お釈迦さまがこの世にお出ましになった唯一の目的は、弥陀の本願を信じなさいという教えを説くためであった、ということを言っています。弥陀の本願とは、念仏すれば浄土に往生するという誓願です。浄土に往生するとは死後は極楽という意味もありますが、この人生に自信を持って生きる私になる、という意味を教えているのが浄土真宗の教えです。





           法話  聖人の迷い 

 来年の二〇一一年は親鸞聖人の七五〇回忌です。親鸞聖人は浄土真宗の宗祖ですから私たちにとって特別の人です。ふつう法事といえば五〇回忌で終わりますが、五〇年ごとに法要を行っていて、その年が来年です。京都の東本願寺では御影堂(いちばん大きな本堂)の修復が五年かけて昨年完了しました。その間に本堂をおおっていた素屋根が隣の阿弥陀堂へ移動して、現在は工事が止まっていますが、二〇一二年からその阿弥陀堂の修復工事が始まります。このような大事業はこの七五〇回忌法要の記念事業で、全国の大谷派の門徒による募財によって行われているわけです。

 親鸞聖人は九歳で出家して比叡山に登り、そこで二〇年間きびしい修行に励まれたけれども、そこに真実の救いを見いだせなかった聖人は二九歳のとき、法然上人の教えに帰依されました。聖人は法然上人の説かれる本願念仏の教えこそ、すべての人を救う真実の教えであることを深くうなずき、法然上人からも厚い信頼を寄せられましたが、聖人三五歳のときに当時の仏教教団や朝廷による弾圧を受け、流罪の身となられました。以後、聖人は苦難の逆境を歩む身となられるわけですが、法然上人によっていただいた本願念仏の教えをご自身において深め、人々に広めることを生涯の課題とされました。

 その聖人の人生の歩みの中で、四二歳のときに関東の「さぬき」というところで、三部経千部読誦を発願しやがて中止するという出来事があったことが伝えられています。このことは伝記として有名な三代目の覚如上人の『御伝鈔』ではなく、大正時代に発見された恵信尼公のお手紙に書かれていたことで明らかになりました。親鸞聖人は二九歳で法然上人に帰依して信心をいただいた、そこから生涯ブレることなく人生を生ききっていかれたことになっていますが、四二歳で迷われたというのはどういうことか、という問題があるわけです。

 奥様の恵信尼公のお手紙は、大正時代まではまったくその存在は知られてなく、西本願寺の蔵の中から鷲尾教導という歴史学者によって発見されました。親鸞聖人はご自身が筆を取って書かれた著書はかなりありますが、それらの中にご自身の経歴や事蹟はほとんど語られていません。どこでどのようなことをしていたのかわからないので、歴史学の闇と言われることもありました。そのような人物像に光を当てたのがこの『恵信尼文書』で、大部ではありませんが非常に重要な内容が、しかも妻というもっとも身近な人によって書き記されているわけです。

 その内容とは、親鸞聖人が五九歳のとき風邪をひかれて高熱にうなされている中で、『大無量寿経』という経典を頭の中で読み続けたといいます。目を閉じると経典の文字が一文字も欠けることなくはっきりと浮かんでくるというのですが、これは一体どういうことであろうか、と自問自答します。

 そしてよくよく考えると、その一七年前の四二歳のときに「さぬき」というところで、衆生利益のために三部経千部読誦をいったんは思い立ったが、お経を読誦することで何かを解決しようという自力の執着心が知らされて、お経を読むことを中止したという出来事があったことを思い出されます。

 このお話はどのような状況の中で行われたのかが不明でわかりづらいのですが、お経を読んで祈願や祈祷することを中止されたのです。つまりお経をあげることで、何らかの呪術的効果をもたらす霊能者のような存在となることは、法然上人からいただいた教えではないと気付かれます。

 しかし聖人はなぜそのようなことに迷われたのでしょうか。聖人の生きられた時代は飢饉や天災が頻発し、多くの餓死者が出ていることは同時代の歴史書にも述べられていて、藤原定家の『明月記』には聖人五九歳の寛喜三年という年は大飢饉に見舞われたことが記されています。「衆生利益のための三部経読誦」とは、貧しい人々が次々と飢え死にしていく中で、人々から天変地異が収まるための祈願を強く要請され、祈願祈祷が念仏の教えとは異なることは承知の上で、人々の要請に応えていこうとされたのでした。しかし経典を読誦していく中で、『大無量寿経』が説く本願の教えにあらためて出会い、祈願や祈祷は真実の教えではないことを身を以てもってうなずいたというのが、この物語です。

 親鸞聖人が苦悩して迷われた出来事を目の当たりにした妻の恵信尼公は、その姿をとおして親鸞聖人に出会われたのです。離れて暮らす末娘へ、あなたの父親である親鸞とはそのような人だった、ということを伝えるためにそのような手紙を書いたのです。