光清寺通信 山河大地

      第47号  2009年12月

 



 これはかつてあるお寺の掲示板で見かけたもので、この言葉が気になっていたので今回、書いてみました。本当かなあ、どうしてそんなことが言えるのかと考えながら…。
 私たちは最初に出会った人をまず観察してある評価を下します。それを第一印象と言いますが、そして付き合いを重ねていく中で、ときどき出てくる本音らしい部分が見えてきたりして、その人の人間性がだんだん理解できるようになると考えます。でも、長い付き合いの人でも「こんな人とは思わなかった」ということがあったりして、「人間というのはわからんものだ」となることもあります。
 確かに、他の人の言葉の片鱗からその人の本音が見えてくるという場合、自分の中に同質のものがなければ他人の心は洞察できないと思います。「腹黒い」という言葉がわかるようになったのはいつ頃からでしょう。人を簡単に信用してはいけない、だまされるよとというのが私たちの世間です。しかし人を信用しないで自分だけを守ろうとする心は外に向かって開かれることはありません。
 仏教の教えとはこの自分自身を知らされる教えです。自分自身とはこの私が知っている以上に深いものなのです。その深さには、嫌悪したくなるような醜い心と一緒に、本当に尊いものに出会いたいという深い心を掘り起こし、そこに私という存在を教えているように思います。



              法話  道理にかなう 

 今年は新型インフルエンザの発生が報じられ、寒くなってきて大きな影響が出ているようです。この北九州でも学校や幼稚園では学級閉鎖が多く出ているようで、私が見聞する範囲でも身近な問題となっています。なるべく人混みを避け、手洗いやうがいを慣行することが大事だと言われています。しかしどこにも行かずに家にじっといるわけにもいかないし、仕事や買い物や病院や、老若男女を問わず外の世界と関わらないでは生きていけません。。

 何年か前に車の中で聞いたラジオの話を思い出しました。「医者はどうしてあまり風邪をひかないか」という話で、病院というのは病気の人が来るところですから、いわば風邪のウイルスがいちばん多く蔓延しているところが病院と言っていいと思います。医者はいつも風邪のウイルスのいちばん近いところに身を置いているわけです。医者といっても生身の人間ですから、いくら予防接種をしているとはいえ菌に囲まれて毎日の生活をしていて、その医者が意外と風邪をひかない、なぜか、ということです。

 それに対してラジオでは、医者はよく手を洗うんです、一日に何十回も手を洗う、患者さん一人一人を診察するごとに手を洗う。もちろん病院には消毒液が用意していてそれに手を浸すということや、石けんを使って手を洗うことは大事だけど、とにかく手を洗うことが清潔にすることの基本だということでした。ナルホドなと思いました。

 それ以来私は外から帰ったときには手を洗うことを心がけるようになりました。そのことが功を奏したかどうかはわかりませんが、わりあい風邪をひくことがあまりないように思います。指先というのはたぶんいちばん口に近い距離にあるのでしょう。無意識に口に手を当てたり、煙草を吸うにもちょっと食べ物を口にするにも手を使います。

 また人間の身体の中で、外の世界に触れる機会がいちばん多いのは手であると言えます。ドアのノブを回したり、バスの手すりやつり革を握ったり、お金の受け渡しや椅子やテーブルを触ったり、そのような手を洗うというだけで効果は大きいと思います。しかも水道の水さえあれば簡単にできる。特に外出から家に帰ったときには、トイレに行こうが行くまいがまず第一に手を洗う、という習慣が身についてしまえば、効果は絶大だと考えたりします。マスクやうがいも大事かも知れませんが、やはり手洗いだということをいろんな人にも話してきました。

 手先を清潔にすると風邪をひきにくくなる、というのはものの道理にかなっていて、しかも誰でもたやすく実行できます。こんな単純でわかりやすいことを私はそれまで知らなかったのでしょうか。そんなことはありません、知っていたはずです。だけどあまり大事だとは思っていなかった、ということはやはり知らなかったのと同じことになります。

 家庭での子育ての問題でもそうですね。子供をどう育てたらいいかわからないという若い母親が多いと言います。世の中が変わってきて子育ての方法も変わってきた、昔と今は違うという話を聞きます。そんなもんかなあ、とも思います。ゲーム、ケイタイ電話、インターネット、パソコンなどと無縁な子供は今はあまりいないんじゃないかと思われるから、ひと昔前からすると大違いです。でも子育ての基本は、愛情をもって育てること以外にないはずです。それは昔も今も変わらないと言っていいのでしょう。

 「今の親は叩かんね、悪いことは悪いと、ちゃんと教えんからロクな人間にならん」という声が聞こえます。「今の親は親としての威厳がない」といいます。今の親の一人として私もそうかも知れません。しかしまた「昔はお年寄りにも威厳があった」という意見もあります。「今の自分ら(年配者)は子供やヨメに言いたいことも言わん。家族にはあまり迷惑をかけたくない」と考える人がかなり多くなっています。私たちは気付かないうちに家族の人間模様が変わってきたのでしょうか。

 私たちにとって今必要なのは、自分の身の丈に合った道理にかなう教えではないでしょうか。かつてこの通信に取り上げた言葉ですが、「人のいうことを/ナルホドソウカ/とうなづけたら/そこには小さな花が咲くようだ」という、ある念仏者の詩がありました。ものの道理にかなう教えに照らされて自分自身を教えられる、そこに仏教が示す人生の方向性があるように思われます。こうしたらいい、ああしたらいい、という対処を考えるのも大事ですが、私自身が教えてもらう身であることを知らされる、というのが仏教をいただく基本にあることだと思います。