光清寺通信 山河大地

      第46号  2009年8月

 



  「であい」という言葉はとてもいい言葉だと思いますが、最近は多く語られすぎていてちょっと危ないような気がします。特に「出会い系サイト」などという言葉は不気味なものを感じてしまいます。「であい」というのは本来、求めて獲得するものではなく、ましてはお金を払って買うものでもない、たまたま偶然のきっかけによって予想外の関係が生まれたりすることでしょう。
 私たちはいろんな場面でさまざまな人と関わることによって、より豊かな生き方が広がってきます。しかし同時に人と関わることは煩わしさも伴います。今の私たちの傾向性はどうでしょうか。人との出会いは豊かさをもたらすかも知れないけど煩わしさから解放されたい、という方向を求め続けたのではないでしょうか。便利で快適で、人から煩わされることのない、つまり自分の思い通りになる生活を求め続けて、現代の日本人はそれをほぼ実現したのかも知れません。しかしそこにはバラバラで孤独という大きなしっぺ返しが見えてきました。
 信教の自由は憲法で保障されていますが、それは国家や社会が国民の信教の自由を奪わないということです。私たち一人一人にとっては他者との関わりによってお互いが影響され、本当に人として大事にしなければならないものを大事にするということが宗教の課題なのだと思います。


法話  お経の話 

 私たちは日常生活の中でさまざまな人と話をして毎日を過ごしています。一日をふり返ってみて、今日はどんな話を聞いただろうか、そして自分はどんな話をしゃべっただろうか、ということを少し意識してふり返ってみるのは大事なことかも知れません。私などはそのようなことを何度かやろうとして、日記のようなものをつけ始めたこともありますが、ダメでした。話を書きとめようとするとまず、それはいつの出来事なのか、どこであったことか、誰の話なのか、どういう内容なのか、そして私はそれをどう思っているのか、というようなことがないと話にならないように思います。

 お経でもそういうことが言えるのではないか、ということを考えついたので書いてみようと思いました。お経は漢文で書かれてはいますけどその内容を解きほぐしていくならば、基本的には人間にわかる言葉でお話をされているのがお経である、ということを申し上げたいのです。確かにその内容に入っていくと、日本語に翻訳すれば誰でも簡単にわかるか、と言われればそう簡単にはいえませんけれども・・。

 ほとんどの仏教経典は最初にそのお経の題名があり、そして翻訳者の名前があります。翻訳者の名前とは、もともとお経はインドのサンスクリット語が文字となった経典の出発点ですから、それをシルクロードを通って中国にもたらされた時に中国語(漢字)に翻訳した人のことです。三蔵法師の名前で有名な玄奘をはじめとして数多くの訳経僧の活躍によって仏教は国境や文化を超えて、そして日本へ入ってきたのが聖徳太子の時代(奈良時代)であることは歴史の証明するところであります。

 『阿弥陀経』を例にして考えてみましょう。『阿弥陀経』は浄土真宗ではもっとも多く称えられてきた、親しみ深いお経の一つです。最初に「仏説阿弥陀経」という題名があり、そして「姚秦三藏法師鳩摩羅什奉詔訳」(ようしんさんぞうほっしくまらじゅうぶしょうやく)という文字があります。「姚秦(ようしん)」とは紀元四百年前後の中国の時代をあらわしています。「三藏法師」とはあらゆる経典がわかるお坊さんという意味で、お経を少し詳しく見ていくと経、律、論というものに大別されるのでその三つの宝の蔵という言葉ですべてのお経をあらわします。次に「鳩摩羅什(くまらじゅう)」という奇妙な言葉が出て来ますがこれは人名です。この人が『阿弥陀経』をインドの言葉から漢文に翻訳したのです。語学に優れた人で三百余巻の経典を訳したといわれています。そして最後に「奉詔訳(ぶしょうやく)」とあるのは「詔(みことのり)を奉(うけたまわ)りて訳(やく)す」と読みます。経典の翻訳は個人の趣味で行うのでなく、当時の中国の皇帝が国家的事業として行ったことをあらわしています。このような経緯によって今日の私たちが見ることのできる『阿弥陀経』が生まれました。インドで生まれた膨大な知的文化遺産ともいえる経典を中国は取り入れようとしたのです。

 そして「如是我聞(にょぜがもん) 一時仏(いちじぶつ) 在舎衛国(ざいしゃえこく) 祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん) 与大比丘衆(よだいびくしゅう) 千二百五十人倶(せんにひゃくごじゅうにんく)」とお経は始まります。「一時」とは、1時2時3時という時計の時間ではなく、仏法を説く者と聞く者との機縁が熟したその時、という意味です。「仏」とは仏陀釈尊(お釈迦様)によって教えが今から語られることをあらわしています。「在舎衛国 祇樹給孤独園」はインドの地名である舎衛国というところの祇園精舎に仏陀はましま(在)して、偉大な出家の僧侶一二五〇人がそこに集まっていました、といっています。お経は、いつ、誰が、どこで、誰に対してということを明確に述べています。

 そして冒頭には「如是我聞」(このように私は聞かせていただきました)という言葉が置かれています。この言葉はこのお経が仏陀の教説であることを示す重要な言葉であります。ここにある「私(我)」とは誰のことなのでしょうか。

 今から二五〇〇年くらい前にお釈迦様は現れ、覚りを開かれて人々に教えを説くのでありますが、その教えを聞いて感動した人たちがいました。その人たちはお釈迦様が亡くなった後も「このように私は聞かせていただきました」と、自分が感動した教えを次の世代の人たちに語りました。それを聞いた人たちもまたその教えを聞いて感動し「このように私は」と語り継いでいきました。このような形で膨大な量の教えの伝承が行われていく中で、それを整理し文字にするということで初めてインドの言葉で経典が生まれ、シルクロードを通って漢字(中国語)に翻訳された経典となるのです。

 ここにある「私」とは仏陀の教えに帰依し、それを依りどころとして生きた多くの人々の歴史であり、その人々が人生を尽くして仏陀の教えは正しい教えであることを証明した歴史でもあります。そのようなお話がお経として言葉や国境を超えて日本にまで伝わって来たのです。