光清寺通信 山河大地

      第45号  2008年12月

 



 真宗大谷派では三年後の二〇一一年に、親鸞聖人の七五〇回忌という大法要を京都の東本願寺でお勤めすることになっています。親鸞聖人が生きられたのは鎌倉時代、今からおよそ八〇〇年くらい昔のことで、亡くなられたのが一二六二(弘長二)年、年齢は九〇才でありました。その時代にあっては驚くほどの長寿でありますが、最晩年に到るまでおとろえることなく多くの著述活動を行い、特に八〇才を超えても次々と生み出されてくる著作物を見ると、平均年齢が飛躍的に延びた現代人からしても想像を絶するものがあります。そして浄土真宗の教義の根本を述べられた『教行信証』は五二才頃に一応の完成を見るわけですが、それについて終生、推敲の手を加えていたことが残された資料から検証されます。
そのような親鸞聖人ですが、ご自身の生活歴については自分ではほとんど何も語っておらず、したがってその人物像は歴史学的なさまざまな傍証によってかたどられてはいるものの、わからないことが多いのが事実です。しかしまた、自身の学歴や経歴を言う必要がない親鸞聖人の教えとは学歴や経歴は問題にしないということでもあります。親鸞聖人は、今、私たち一人一人の上に阿弥陀仏の願いがはたらいている、というメッセージそのものとなって現れているのでしょう。


法話  たすかりようのない身が‥ 

 「「会社では課長はヒラをいじめ、ヒラは家に帰り女房をいじめ、女房は子どもをいじめ、子どもは学校で自分より弱い子どもをいじめるんです」毒舌漫談で中高年の女性らに絶大な人気がある綾小路きみまろさんは、こんなセリフで爆笑を誘う。しかし、現実は笑っていられない。」これは十一月二十二日付の朝日新聞の社説で、「子どもの暴力―いら立ちの芽を摘むには」と題された一文の冒頭です。綾小路きみまろさんはご存じの方も多いと思いますが、テレビにもよく出ていたお笑い芸人です。こんなことを言っていたのかと私は目がとまりました。

 この「社説」によれば、公表されている統計調査では右肩上がりの深刻化を感じさせるが、それは調査方法や言葉の定義の問題もあり一概にそうとも言えないとしながらも、暴発しやすい子どもは確かに増えている、その理由として自分の感情を抑える力が弱まっていることをあげて、「かつては、生身の人と接することで自然に鍛えられた心の耐久力が、今弱まっている」と言い、ゲームやメールなどの仮想空間の比重が高まっていることを指摘して、子どもたちのSOSを見過ごさずいら立ちの芽を早く摘むべきであることを述べています。

 私は社説が述べていることは、そうであるとしても、引用された綾小路さんの言葉に興味を持ちました。いじめは連鎖であるということですが、なるほどそういう面があるのではないかと思いました。しかし、どうして人は人をいじめるのでしょうか。

 「会社では課長はヒラをいじめ、」という綾小路さんの言葉を見ていると、何も課長はふんぞり返っていつも威張っていられる存在かというとそうではなく、課長もいろんなことで苦しんでいるということなのかも知れません。いじめという言葉の意味を辞書で調べると、力のあるものが弱い立場のものを苦しめることとあり、力のあるものはそうすることによって自分の立場や権力を守ろうとし、苦しめられた者は憎悪や惨めさやストレスを抱え込んでいくことになり、それがさらに弱いものに向かうということなのでしょう。

 いじめが連鎖であるということはさまざまな背景があるということですが、どこかでその連鎖を断ち切らなければならない、しかしその連鎖は私たちが生きている社会構造そのものだから、断ち切ることはなかなか難しいと言えます。むしろ連鎖を断ち切るのではなく、課長はヒラをほめ、ヒラは家に帰り女房をほめ、女房は子どもをほめ、子どもは学校で自分より弱い子どもをほめるような、ぜんたいがひっくり返るという形でいけばいちばんいいと思いますが、「ありえない」と一笑に付されるのでしょうか。

 親鸞聖人の教えからすると、人間自体が煩悩の身であり、長い迷いをくり返してきた因縁によって苦を逃れることのできない私がここにいると考えます。人間の心の根本は煩悩であり、貪欲と瞋恚という、これはつまり自分さえよければいいという心であり、まわりを思い通りに支配しようとし、思い通りにならなければ怒りを起こす心であります。それらの心は自分では封じ込めていると思っていても、いくらふたをしても生きているかぎりなくなることは絶対にない、というのが仏教の人間観です。だからこそ本願他力の念仏によって救われてほしいというのが念仏の教えであります。

 親鸞聖人の教えを「たすかりようのない身が、たすかるような身になって、たすかるのではない。たすかりようのない身のままに、たすかっていく道である」と述べてくださった方がいます。

 私たちはこの現実世界に生きている限り、さまざまな人との関わりの連鎖を断ち切るわけにはいきません。仏教ではそのことを業因縁の身として教え、自分が好むか好まないかに関係なく生かされている身である、そのようなたすかりようのない私がたすかる道として念仏を申すことを教えているのです。そんなことは到底、信用できないと考える人もいるでしょう、しかしこれは何も魔術的なことではありません、宗教による心のひるがえりは誰の上にでも起こりうることなのです。

 「たすかりようのない身のままに、たすかっていく道」とは、逆に言えば、たすかっていく道に立つことができたならば、ますますたすかりようのない身であったことが知らされるのであり、そこに自分が本当の自分に立ち帰ることができると同時に、念仏のご縁を喜ぶことのできる世界を賜るのではないでしょうか。