光清寺通信 山河大地

      第44号  2008年8月

 




 安田理深という仏教の偉大な学者の本を読んでいて心に残った言葉です。念仏はどのような口から出るのであろうか、ということを親鸞聖人の教えを究極にまで突き詰めた方がこのような言葉をおっしゃっておられます。念仏とは凡夫の口を借りて出てくる仏の大悲心なのでありますから、その念仏によってこの私自身が教えられるということがあるのです。私のような者の口から出るお念仏は空念仏だから偽物だというふうに考えるのは越権行為です。お念仏は深い因縁あってのものであって、縁のない方には出そうと思ってもそう簡単には出てくるものではありません。
 「おかあさん」と母を呼ぶ言葉、「ごめんなさい」と自らの非をわびる言葉、「ありがとう」と死にゆく人が家族に告げる最後の言葉、これらの言葉がもし虚しい言葉であるならば人間に気持ちを伝える術はないと言わなければなりません。地獄とは言葉の通じない孤独な世界であり、浄土は言葉が必要のない世界であり、人間の世界は言葉を尽くして通じ合わなければならない世界であると言われたある仏教者の名言が偲ばれます。



   法話  仏さまの慈悲

 慈悲とは仏教の教えからすればとても重要な言葉でありますが、いつの間にか勝手な解釈が入り込んでしまって、仏教の教えから少し離れた意味になっている言葉の一つかも知れません。

 慈悲とは言葉そのものの意味は、いつくしみ悲しむ、ということで仏さまの深い愛情をあらわす言葉であります。ところが「お」という文字をつけて「仏のお慈悲におすがりする」というと何かもう一つ普通の現代人には取り付きにくい言葉となっているように思われます。それは何か普通の現代人とは違う、特殊な人生ドラマを生きてきた特別な人の信仰世界をあらわしているような響きがあります。どうしていいかわからないような人生の真っ暗闇の中から光に出遇う、というような強烈な人生経験をもった人はそのことを契機として、宗教との深い関わりを持てそうな感じがしますし、実際にまたそうなのでしょう。しかしそのような経験は意識しているかしていないかの違いであって、ほとんどの人はそのような問題をくぐってきたのであると私は思います。したがってこれは特殊な人の特別な問題ではないということを申し上げておきたいと思います。

 今日は宗教不信の時代なのか神仏におすがりしない人もだんだん増えつつあるという話も聞きます。時代はまさに変わり続けているのでしょうか。確かにこの十年、二十年、三十年を考えてみると本当に世の中が激変したと思います。町並みを見ていると少しずつゆるやかに変化し、近所のお店がなくなり古い家が取り壊され、コンビニエンスや大型商店、マンションの工事が進められ、気がついた時には以前の風景が思い出せないくらいに変化して、というのが私の実感です。しかしそのような中にあって、変わらないものというよりも、変わってはいけないものに目を凝らして確認していなければならないと思います。

 変わってはならないものとは何か、人間は人との関わりにおいて生きているということです。親子、夫婦、友達、さまざまな組織などの関わりこそ生きていることの本質なのです。野球を譬えとして考えてみると、ピッチャーが投げたボールは相手に打たれても、それをサードが捕って投げてファーストが捕ってアウトにする、チームとチームが戦うときはそのような連係プレーによって相手を制していきますが、それがうまくいっている時はいいけれども、ときにはエラーや暴投で連係が乱れます。一人一人の個人プレーが全体の連係を生み出すに違いないけれども、ミスに対して責任のなすり合いをするような関係ではチームとしては最悪です。お互いの深い信頼関係の上に成り立つのが野球というゲームです。

 オーイと呼べばオーイと応える関わりこそ人間の信頼関係の基本です。オーイと呼んでも何も言葉が返ってこないとすればそれは孤独と不信の世界です。確かに私たちはすべての人と誰とでも呼べば応えるというわけにはいかないのであって、野球でいえば自分のチームの中という限界をもっていますが、差し当たって大事なのは自分のチームにおける信頼関係こそが重要です。ではそのチーム内の関係を深めるにはどうしたらいいか、という問題は皮肉なことにチームの内側だけでは解決できない、むしろチームの枠を超えたところにあるということに気付くとき、仏の慈悲ということとの接点が開かれてくるのではないでしょうか。

 真宗の門徒の家の正式な御本尊は阿弥陀如来の絵像ですが、長方形の掛け軸の中央に阿弥陀如来の立像が描かれていて、その周囲には後光が四方八方に伸びています。この後光は紙の制約もあって図面いっぱいにしか描かれていませんが、実は私たちのところまで届いていることをあらわすために図面いっぱいに描かれているのです。この後光は智慧と慈悲をあらわしています。

 野球のチームはメンバーがいったん決まればその一人一人がいくら下手であっても見捨てることなく、一人一人のいい面をどれだけ発揮できる状況をチームが作れるかが重要なのでしょう。これは単に仲間意識を強くすることとは違い、いったん仲間だと決めた以上は絶対に最後まで仲間なのだという精神ではないでしょうか。私たちの日常心は欲の心で生きていますから、自分の都合が悪くなれば仲間であっても平気で見捨てていく心をもっています。しかしチームという精神は人間の欲の心には根ざさない何ものかがひそんでいます。これがそのままイコールとは言えないけれども仏さまの慈悲心に近い内容であると思います。仏の慈悲心とはすなわち摂取不捨であるといわれ、おさめ取って決して見捨てない精神であります。仲間には入れるけれども都合が悪くなれば見捨てていくという人間の心とは違います。それを形にあらわしたのが御本尊の後光であり、この後光は私たち一人一人にまで届いていることをあらわしています。

 阿弥陀さまと私たちとは深い因縁によって関わっている、ということを受け止めていくことが仏教の信心の基本にあることではなかろうかと思います。