光清寺通信 山河大地

第43号  2007年12月



経(きょう)といふは経(けい)なり。経(けい)よく緯(い)を持ちて疋丈(ひつじょう)を成ずることを得て、その丈用(じょうゆう)あり。

   善導大師


 法事などの仏事とはお経をあげるのがその主な内容です。お経は漢字ばかりでつづられた、現代人にとっては意味不明な呪文と思われても仕方のないものかも知れません。しかしお経とは何か、どういう内容が書かれているのか、ということを少し述べてみたいと思います。
 経典の内容とは釈尊の説法、すなわち仏陀の教えが書かれています。ではその教えとはどのようなものか。中国の善導大師は「「経」といふは経なり。経よく緯を持ちて疋丈を成ずることを得て、その丈用あり。」と言っています。世界地図を思い出してください。地図全体に縦線と横線が引いていますが、縦線は経度(けいど)といい横線は緯度(いど)といいます。お経とはその縦線だと言うんですね。布や織物は縦糸と横糸とが交互に重なりあってできています。横糸をどれだけたくさん並べても決して布になりません、当たり前のことです。
 横糸とは何を喩えているのでしょうか、それは私たちの人生経験です。さまざまな人生経験を経てきた人にはそれ相応の奥行きが感じられます。しかし世間的に成功した人も失敗した人も、教えを縦糸として人生経験を頂いた人は人生という作品を完成することができ、そのようなはたらきを成すものこそ「お経」、すなわち真実の教えと言っています。



法話  親鸞聖人とは

 親鸞聖人とはどのような人でしょうか、と言っても鎌倉時代の人ですから直接会ったことのある現代人は誰もいません。私たちは残された資料をもとにして想像するしかありません。真宗のお寺の本堂には、ご本尊の右側に親鸞聖人のお姿を描いた掛け軸(絵像)が、屋根付きで両開きの扉のついた仏壇のようなもの(厨子)の中に掛けられています。

 皆さんの家の仏壇にはご本尊の両脇には多くは十字・九字名号となっています。これは真宗の仏壇の正しい形ですが、十字・九字名号の代わりに右に親鸞聖人、左に蓮如上人の絵像を掛けてもいいようになっています。

 この親鸞聖人の絵像の原型についてお話しします。

 鎌倉時代に描かれた親鸞聖人の絵像は三つありまして、「鏡御影」「安城御影」「熊皮御影」です。これらはいずれも重要文化財や国宝として大事に保存されていますが、おそらく皆さんも本や印刷物で見たことがあるのではないかと思います。今年の十月から十一月にかけて太宰府の九州国立博物館で行われた「本願寺展」では「熊皮の御影」の本物が展示されました。

 「鏡御影」は聖人の絵像としてはもっとも古く、聖人七〇才頃のものとされています。鏡に写したように容姿が描かれているということで「鏡御影」と呼ばれていますが、立った姿で手に数珠をもち、どっしりとした体格、はりのある顔立ちが黒の墨線でスケッチされています。描いた人は専阿弥陀仏という名の絵師と伝えられていますが、どのような事情のもとにどういう目的で描かれたかはよくわかりません。

 「安城御影」は三河国(愛知県)の安城というところに伝来したのでその名があるのですが、この絵像は非常にはっきりとした目的をもって描かれたものであると言われています。聖人の門弟の一人である専信房専海という人が法眼朝円という絵師に描かせたものでありますが、親鸞聖人がある指示をして書かせたと言われています。親鸞聖人はその主著である『教行信証』を五〇代前半頃にほぼ書き上げ、さらに推敲を重ねながら手元に置いておられました。それから三〇年ほど後の建長七年・聖人八三歳の年にこの専海という門弟に『教行信証』の書写を許し、この「安城御影」を共に授けられたのです。

 これはちょうど若き親鸞聖人が師匠法然の弟子となり、法然上人からその絵像とともに主著である『選択本願念仏集』の書写が許されたのは三三歳の出来事でした。法然上人には当時一九〇名ほどの門弟がいたようですが、それを書写することを許されたのは親鸞聖人を含めて高弟のわずかに六名ほどでした。法然門下では親鸞聖人は若輩者でしたが、本当に上人の教えを正しく継承する人であると法然上人は認められたからのことでした。その出来事は深い感銘を込めて『教行信証』に記されています。それと同じような形で聖人は門弟の専海に自らの主著を絵像と共に託し、事実上の公開をされていくわけです。


 しかしその絵像は他の高僧方に見られるものとは大きく異なっています。慈悲深く柔和で温厚で上品な顔つきとはとうてい言えない、眼光鋭く厳しい顔つきで座っておられます。そして手前には草履、杖、火鉢が並べられています。聖人から三代目の覚如の長男・存覚はこの絵について、敷物は狸の皮、草履は猫の皮などと記しています。火鉢はおそらく冬の寒い日での語り合いに常用され、杖や皮の草履は遠くまで布教に歩かれる必需品だったのでしょう。

 主著の『教行信証』とは仏教の真実を明らかにするという大部の書物ですが、単に学問的に厳密な仏教の教理学を論ずるというようなものではなく、飢饉や戦乱に現に苦しむ人々を前にして、人間が本当に救われることのできる教えこそ仏教の真実であることを明らかにされました。それは師法然の教えをさらに徹底して民衆と共に生きられた聖人をあらわしています。

 そして最後の「熊皮の御影」は現在は奈良国立博物館に所蔵されていて、それが今回九州にやってきました。前の二つに比べるとかなり大きなもので縦一二〇a横八〇aくらいで、光清寺にもその複製品があります。

 この「熊皮の御影」はどのような事情の中から生まれたものなのか、よくわかっていません。この肖像画は先の「安城御影」を祖型にして描かれたと考えられ、浄賀法橋という絵師によるということから、百年くらい後のものと言われています。

 聖人が安座している敷きものは白い毛の混ざった熊皮であることが名称の由来であり、聖人のお姿はたくましい壮年期として描かれています。この肖像画は聖人滅後のものですから聖人が意図したものではありません。聖人の教えを深くうなずき聖人を敬ってやまない門弟とは長く仏教の埒外にいた人々かもわかりません。我々のようなものが救われる念仏の教えを明らかにしてくださった親鸞聖人とはこのような人であったのだと、無言のメッセージが込められています。