光清寺通信 山河大地

      第39号  2005年12月

 



 今年の八月上旬の頃、犬が一匹増えました。ある知人のところの犬がお産をして五匹生まれたとのことで、もらい手を探していたところ、どこでどう話が進んだのかよくわからないままに、その御犬様はやってまいりました。ビーグル犬の雑種で、当時はまだ一ヶ月足らずの赤ちゃんでした。母乳による免疫とかで二ヶ月くらいまでは親元から離さないのが普通ですが、事情があって少し早く親子が離ればなれになったわけです。現在は四ヶ月半となり元気に走り回っています。
 この御犬様の来訪によって私たち家族に与えた影響は多大で、居間の敷物をダメにされたり安眠を妨げられたりいろいろと数え上げればきりがないのですが、明かるさ賑やかさをひとつ増やしてくれたことだけは間違いないようです。

ひとつの法話・・人間の価値

 今年も御正忌報恩講の法要をお勤めすることができてホッと一息ついているところです。毎年十月末か十一月初旬に行われるこの法要が近付いてくると、寺の中では慌ただしさと共にある種の緊張感に満ちた日々が続きます。そして仏具のおみがきや餅つき、掃除、花活け、おときの準備など、門徒の中の、ある一部の方々のたいへんなご厚意に支えられて毎年お勤めすることができるのであります。そのようにしてお迎えするこの法要とは、親鸞聖人の残された大事な教えを一人でも多くの人々に伝わってほしいという、深い願いが形となって伝統的な行事として行われています。

 法要が終了して後日、お会いする門徒の方々の中から、法要にお参り出来た喜びを聞かせていただくことがありますが、これは住職としてこの上もなく嬉しいことであります。しかしそれは同時に法話の内容や法要そのものの有り様について、質問や感想や意見、時には批判まで含めて、法要をお勤めすることの意味をお互いに確かめ合うというところに〈門徒〉ということの実質的な意味があるのではないかと思います。それぞれの家督財産を相続するのと同じように宗旨が親から子へと相続されるというのは形の問題であって、それで宗教の問題は片づいたということにはなりません。形を縁としてその精神に立ち入っていくにはまず、一人ひとりが法要に参加して親鸞聖人の教えに直接耳を傾けていく、そこに光清寺の〈門徒〉であると同時に親鸞聖人の教えいただいて生きる者になるという意味があると思います。

 さて話は少し変わりますが、私たちが暮らしているこの社会とは果たしてどのような社会なのかと考えることはありませんか。暮らしやすい社会なのか、あるいは暮らしにくい社会なのか。日本という国は今のところはさしあたって戦争や貧困、飢餓にはあまり縁のない暮らしやすい社会であると一応言えます。しかしこの頃は何か人間も自然環境もだんだんとおかしくなってきて、将来に不安を感じている人が多くなっているということを聞きます。

 国の借金は膨らむ一方で高齢化社会という問題がますます切実になっています。高齢者の医療費負担はだんだん増えてくるし、税金はだんだん高くなり、灯油も上がる、果ては消費税もそのうち上がっていく‥‥、長く続いた不景気はようやく抜け出せそうな兆しが最近見え始めてきて、株も上がり始めたといいます。果たしてどうなのでしょうか。

 大学生の時に経済学の講義を少し聞いたことがあります。うろ覚えではありますが、経済の成り立ちの基本は需要と供給である、人々の需要に応じてモノが供給されるところにモノが価値を生み出し、モノの有用性(役割)が果たされることになる、確かそのようなことを言っていました。この世の中にあるすべてのモノの価値は相対的流動的なものであって、永遠不変の絶対的な価値などないということで、ナルホドとうなずいたことがあります。つまりモノの価値というのはモノそのものとしてあるのではなく、人間から見た必要性や稀少性によって変わるものであるということです。もっといえば、私たちの好き嫌いや都合、より快適な状況を求める欲望・願望が世の中の経済を動かしている基本にあるのであり、現在の社会状況はその私たちの欲望の反映を基本として成り立っているのであるということになります。

 モノに価値を生み出すような人間の欲望や願望とはどのようなものであるのか、そしてそれは果たして本当に人間を豊かにし幸せにするものなのかどうか、ということが吟味されることはあまりありません。ひとつの譬喩として「粗大ゴミ」ということがよく言われていました。私たちの心がもつ欲望や願望という人間の都合は、いつの日か自分自身にまで役立たずの烙印を押すところまで突き進みます。

 仏教の教え、親鸞聖人の教えは、世間にあって世間を超える教えであると教えられました。世間とか社会とはこの私と切り離されて存在するものではないことはいうまでもありません。周りの人々との関わりにおいて私という居場所が与えられるのであって、それ以外の場所で生きることを仏教は要求するのではありません。しかしこの世間は人間の欲望で成り立っている世界であるから、世間を依り所にして生きるならば苦を免れない、だから真実なる道理の教えを依り所としなさい、というのが聖徳太子の「世間虚仮、唯仏是真」という言葉であります。

 人間の価値は需要と供給による比較相対の関係によって決まるのではない、他の人との生きあいをとおして自分自身が自らの存在の価値を絶対に見捨てないで生きられる世界こそ、念仏の教えが伝えてきた宗教的世界なのでしょう。