光清寺通信 山河大地

      第37号  2004年12月

 




ひとつの法話・・自分の顔

 毎年十一月の初旬になると本山からカレンダーが送ってきます。世間の社交儀礼からすれば、翌年のカレンダーは年の瀬を感じる師走に入ってから配るものかもしれませんが、私の場合はお月忌参りをしているところを主として配っていまして、お月忌参りは月に一回なので配り終わるのに一ヶ月間かかります。そうすると配りはじめの十一月というのはどうしても自分の気持ちとして、早すぎるという思いがあるので、ついつい言い訳のことばを添えてしまいます。

 「ちょっと早いけど来年のカレンダーです」「一年経つのも早いですね。もう今年も残り少なくなったんですね」などなどとおしゃべりをしています。そして時には、そのような会話から思いがけないような話に出会うことがあります。それは私にとってはたいへん大事な出来事です。

 ある門徒さんのそのご婦人は、お寺の法要などにはあまり参詣されることも少ない方なのですが、どこかで真宗の教えの雰囲気を感じられていたのでしょうか。

 「このカレンダーのことばは本当にいい言葉が書いていますね」と、ご挨拶ていどの話を始めたのではないかと思い、「そうですか」と軽い気持ちで言葉を返しました。そうするとそのご婦人は、「今年の何月だったか忘れたけど、『私のあたまにつのがあった つきあたって折れてわかった』というのがあったでしょう。私、あれ、思わず手帳に書き写したんですよ。あれを言ったのは男性ですか、女性ですか」と尋ねられました。

 そういう言葉がスッと出されたことに私は驚きました。私の方は、言われてみれば、そんな言葉があったかなあ、という程度で、少し返答に窮しました。「たぶんあれは妙好人といわれる人の言葉でしょう。仏教の学者とか知識人の言葉ではないと思います。妙好人とは教えを聞きぬいて独特の智慧の世界に生きている人のことで、特別に学問や知識がなくても、驚くべき深い人生の智慧を持っている人のことです。そういう人の言葉だと思います。男性か女性かはちょっと…」

 それから、この言葉を何度となく考えてみました。自分の顔を本当に知っている人はいるのでしょうか。鏡をみれば誰でも自分の顔はわかると言いますが、それは自分の本当の顔ではないかも知れません。自分の知らない間に写真を撮られたりしたのを見せられると、見たくない自分の姿を見せつけられているような気がして、隠してしまおうとした経験が私にはあります。案外、自分がどんな顔つきで生活しているのか、考えると恐ろしくなるような気さえします。

 そしてふと思い起こされたのが明治から大正、昭和を生きた妙好人、浅原才市という人の話です。島根県の温泉津町に生まれた浅原才市は船大工で苦労の多い人生を過ごした方ですが、仏縁に遇い、深く念仏の教えを喜んだ方です。後に日本を代表する禅学者の鈴木大拙氏によって、この名もなき妙好人・浅原才市は類い希な深い宗教的境地に達した智慧者であることが評されました。

 その妙好人・浅原才市の資料館がこの温泉津町の安楽寺というお寺にあるそうです。そこには浅原才市の肖像画があるというのですが、威儀を正して正座し数珠を持って合掌したポーズで描かれているけれども、ちょっと変な容貌なのだそうです。そしてそれには面白い逸話があるといいます。

 同郷の画家に自分の肖像画を描くように頼んで、絵ができあがったとき、「私に似ていない」と言って受け取ろうとしなかったそうです。自信をもって描いた絵に文句を言われてムッときた画家は「どこが似ていないというのですか」と尋ねたそうです。すると浅原才市は「私はこんな美しい信者ではない。鬼のような恐ろしい心をもっていて、人を憎んだり、嫉んだり、怨んだりする浅ましい私が、少しも描かれていない」と答えました。画家は困ってしまいました。

 では、どうすれば似るのかと画家が重ねてたずねると、「頭に角を描いてください。人を突き刺し、傷つける恐ろしい角を心の内にもっていることを描きあらわしてください」というので、仕方なく描き直したというのです。柔和な念仏の信者の頭には、二本の角が生えた奇妙な肖像画が完成した、というのがこの話の由来だそうです。

 人は見かけによらないどころの話ではない、この自分自身すら自分でも予想できないような心が潜んでいて、いつ何をしでかすかわからない自分であることを告げているのでしょう。けれども、そのような自分の姿であることを本当に知る者こそ、自分自身を大事にし、まわりを大事にできる、深い人生の智慧を獲得した人なのでしょう。仏教の教えとはまさに自分自身を深く知る智慧の教えなのでありましょう。