光清寺通信 山河大地

      第36号  2004年8月

 




 今年は北九州では梅雨明けが、平年より一週間も早かったこともあり、暑さの厳しいこの頃です。新聞を見ていて〈木から木へ火をつけまはる油蝉〉という俳句が目にとまりました。ギラギラと照りつける夏の陽射しの中、一匹のセミが近くの木にとまると、あの小さな身体からは考えられないような耳をつんざく賑やかしさ、そしてそれは他のセミの鳴き声を引き出すかのように次々と飛び火して影響しあっていきます。人間もそれと同じようなことがあるように思えてなりません。何かしら気力が抜けてしまって沈み込んでいるとき、心が不安定な状態のとき、ちょっとしたことばが闇を照らす光になるような経験です。他の人から明るい心をもらい、それは次々と伝染していくかのように、人の心に灯をともします。


   ひとつの法話・・自立

 つい最近のことですが、ある友達とお酒の席でいろいろ話す機会がありまして、その友達が「結婚してもそれまでやっていた自分のペースはなるべく変えん方がいいよ、ということを野村(私のこと)さんから言われて」ということを告げられて私は驚きました。「オレ、そんなこと言った?」私にはほとんど記憶はありませんが、考えてみれば言いそうなことだなあと思いました。その友達は私よりひとまわりくらい年下で去年、結婚して、オカゲでとても心地良く家庭生活を送っているとのことでした。私は内心、その妻となった方から恨まれるのではないか、いらんことを言わなければよかったかなあとも思いながら、けれどもそれが正しいことかどうかは別にして、私自身はそのように考えたいという気持ちを持ち続けています。

 以前にお参りに行った先での門徒さんとの話で、数年後、そこの家の主人が定年退職して家でゴロゴロするようになる生活についての話をしていたときに、そこの奥さんは「まだ想像ができないけどなんかイヤねぇ、どうしたらいいんでしょう?」と言っていました。それまで仕事一途で何十年か生きてきた人が、ある日を境に仕事をやめるというのは本人にとっては大変なことです。男性・女性にかかわらず、仕事をしてきた人がそれを止めて、仕事をしない生活が日常の中に定着するのはそれほどたやすいことではない、何ヶ月もかかるともいいますが、何年かかっても家での生活に落ち着かない場合もあるそうです。確かに何十年も働いてきて無事定年を迎えて、あとはゆっくり趣味や好きなことに余生を楽しんでもらいたいといいますが、仕事をするというのはただ我慢して堪え忍んで働くだけでありません。そこにはもちろん苦労もあると同時にさまざまな喜びや充実感もあったはずです。仕事をやめるというのはそのすべてを失うことになるので、本人にすればたいへんな空虚感を味わうことになるのでしょう。

 そこで私は言いました。「旦那さんが定年になったら生活は多少は変わるでしょう、だけど奥さん自身がそれまでやっていた自分のペースはなるべく変えない方がいいと思う。友達付き合いとか趣味とか自分の好きなことをです。その方が逆に旦那さんも早く本人の生活が定着するような気がするけど・・」と。人にはいろんなタイプがあるから一概には言えませんが、家でゴロゴロするご主人を「かわいそう」と憐れまれる視線は辛くもあり、その空虚感を増幅させるのではないかと私は思います。私たちは何歳になっても一人一人が自立する生活を目指すことがいちばんの基本ではないでしょうか。

仏教は私たちに自立することを教えています。ただし人のお世話には一切ならないことが自立ではありません。人のお世話になることは自立することと矛盾しません。お世話になったことを受け止め、お礼を言うことが自立の始まりなのです。
 
 ひとさまのお世話になることと人をあてにして無責任な生き方をすることは違います。人のお世話になり迷惑をかけながら本当に自立する生き方、自分のことに責任をもち納得のできる生き方こそ求められるものではないでしょうか。