光清寺通信 山河大地

      第35号  2003年12月

 




 仏陀釈尊は悟りを開いた人であると言われていますが、その悟りとはいったいどのようなものでしょうか。もちろんそれは悟りを開いた人でないとわからない世界といわれますが、悟りそのものの全体はわからないにしても、仏教の教えは人間に対する深い洞察に満ちています。なぜ人間は苦しまなければならない存在なのか、そのいちばん根源にあるものを無明(むみょう)と教えます。
 無明とは明かりがない状態、真っ暗闇ということですが、それは「なんにもわかりません」ということではなく、「私のことは私がいちばんよく知っている」つもりでいることに気づかないことを指していると教えられています。若い頃、父親から「気をつけて行きなさい」と言われて、口では「行ってきます」と言いながらも、内心では「そんなこと、言われんでもわかっておる」と反抗心を起こしていたことが思い出されます。仏教ではこの「わかっておる」という態度こそ、自我心の執着深さをあらわしていると考えます。
 人の暖かい心に触れて喜びを感じるような経験は、わかったつもりの自分の心ではなく、他者との出会いの経験からくる新しい自分の発見なのでしょう。


ひとつの法話

 今年も一年の最後を締めくくる月になりました。感慨も人それぞれ、さまざまでありましょう。しかし一年をふり返えってみて、多くの方が実感を込めて「一年経つのは早いなあ」ということを語られます。そしてこの一言の中には、ことばではあらわせないようなさまざまな思いが込められています。

 各人の身の回りに起こった出来事や、テレビのニュースで流されるさまざまな事件や政治・経済の問題などのことを考えてみると、世の中も変わったという感じすらあります。また、変わり方があまりに早すぎて段々自分の方が時代の流れについていけなくなるのではないか、ということを言う人もいますが、確かに社会構造や倫理、価値観などが少しずつ変わっているのです。簡単には思い出せないくらいさまざまな出来事が通り過ぎ、気がつかないところで世の中が変貌していく、いろいろあったけど過ぎ去ってみれば何が自分の中に残っているだろうか、と言いたくなるような実感がこの「早さ」ではないでしょうか。

 以前に何かの本で読んだことですが、本を読むことの大切さを述べているところで、古典のものと現代のものの両方を読むことの大切さを述べていました。今の時代のもの一辺倒にかたよるのもよいことではないし、また古典だけにかたよるのもよくないんだというのです。長い歴史をくぐって読まれてきた古典には、時代の状況は違ってもかわらない人間の問題が教えられてくるということがあるし、そしてこの現代という同時代を生きるものとして今日の出来事に無関心というわけにはいきません。そこに古典と現代のものとが合わせ鏡のように、お互いを照らし出すようなものの考え方ができるならば、それによってたいへん深い智慧をもたらしてくれるということが述べられていました。

 ここ数年、癒しブームと言われて、心が癒されるというさまざまなアイディア商品(商売)が紹介されますが、それはストレスの多い現代社会の反映だと言います。「真心のこもった‥‥」というキャッチフレーズはよく見かけます。異様に愛想のよい、心のこもった対応や安心感を印象づけようとする貸金業のコマーシャルも増えてきました。多くの企業はイメージづくりにたいへん熱心です。もちろん誰しも貸金業者に、本当の真心や愛情を要求することはないでしょうけれども、テレビが繰り返すイメージは無意識の中に焼き付けられ、虚構だとわかっていてもそれによって人の心は動きます。

 笑顔や優しさ、真心は歴史を超えて人の心に安らぎを与えてくれるものですが、現代はホンの一時しのぎでいいから、偽物や借り物とわかっていても癒されたいという願望の強い時代なのかもわかりません。しかし人間にはどこかで本物の心に出会うことを求めているにちがいありません。

 ある本に次のような小学生の詩が載っていました。

   私のお母さんは
   私が学校から帰ると
   「おかえりなさい」と
   いつもにっこりしながら
   いってくれる
   どんなにおもしろくないことがあっても
   「おかえりなさい」ということばで
   もりもりと元気になる
   お母さんの「おかえりなさい」ということばを
   日本じゅうの三年生に
   きかせてやりたいなあと
   いつも私は考える

 本当の真心や優しさが〈私―あなた〉という実在の人間関係の上に感じられるならば、そこには満ち足りた幸福感が実感できるのでしょう。「おかえりなさい」という母親の笑顔が子供たちから遠ざかっているとするならば、これは重大な問題だと思います。しかし人間は歴史を超えて、あるものに満足せずに、ないものを求め続けるという、限りない欲望をその本性として生き続ける存在です。そして同時に「ナルホドソウカ」と気づくものと出会うことによって、最も身近なところで私自身を支えているような存在、それは歴史を超えて人間が求め続けてきたものではないでしょうか。