光清寺通信 山河大地

      第34号  2002年8月

 




  昨今の新聞の折り込み広告では、さまざまな種類の掃除用品がそれぞれの用途別にそろって、よくもまあこんなにたくさんのものが考えられたと感心するくらいに並べられています。より便利で使いやすいアイデアを生かしたということでさまざまな商品が工夫され、考案されてくるのでしょう。そしてじっさい、ナルホドと思わせるような便利なものもあったりします。
 しかしちょっと考えてみてください。掃除の基本はやはり雑巾で、これに勝つものはちょっと他には見当たらないのではないでしょうか。最近の家には雑巾がけをするような板張りの廊下がなくなってきたといっても、窓ガラスや車の掃除には雑巾は欠かせません。布きれ一枚ということからすると、ハンカチも同様でこれを持っていくのを忘れたためにとても気まずい、困った経験をしたことは誰でもあることではないでしょうか。
 さて、このことばは念仏の教えを深くいただかれた榎本栄一という詩人のおことばです。私はここには、大事なことが語られているという気がしました。


ひとつの法話

  また夏がやってきました。今年は天候不順なのかいつまでも梅雨が明けなくて、なかなか真夏の暑さがやってこない状態なので短い夏になるかもわかりません。七月中にお盆参りの予定を立ててハガキで知らせるということをここ十数年くらいやっています。そうすると必ず何件か、お盆参りの予定に差し障りのある人から電話がかかりますが、最近はそれもほんの数件で、ほとんど予定が変わることは少なくなってきました。ところがそういうことをやっていて、お盆参りをすることにどのような意味があるのかなあと、ふと考えさせられることがあります。昔からやっているからするというだけだったら本当に形だけのものになってしまいます。

 私たちが宗教的なものに何らかの形で関わる場合、ある行為をすることによって何か有益な結果を生ずるという明確な目的があってそれを行うという、日常的に考えている普通の行為とは少し様子が違うということは言えると思います。たとえば知り合いの人のお葬式にお参りをするということひとつを考えてみても、それは自分にとって有益かどうかを考えてお参りしようという人はあまりいないと思います。「世間のつきあいだから」ということでお参りをするというのが大半なのかもわかりませんが、それはまたそれで大事なこととも考えられます。しかしごく親しい人の場合は、なにかその別れを本当に痛むという気持ちによって動かされるのでしょう。その気持ちをもう一歩突き詰めて考えれば、いわば自分自身の人生そのものの意味を考えさせられるような大切な場として、何を差し置いてでも葬儀の場に身を置きたいということがあるのではないかと思います。

 人生の意味ということで『バカの壁』(養老孟司)という本では、かつてアウシュビッツの強制収容所に収容された経験をもち、『夜と霧』という本で有名なフランクルという心理学者についてふれています。「彼(フランクル)は、一貫して「人生の意味」について論じていました。そして「意味は外部にある」と言っている。…より噛み砕いていえば、人生の意味は自分だけで完結するものではなく、常に周囲の人、社会との関係から生まれる、ということです。とすれば、日常生活において、意味を見出せる場はまさに共同体でしかない。」といっています。

 お盆になると都会で暮らしている人々はいっせいに故郷をめざして大移動をはじめますが、その人々を動かしているものは千差万別の理由があるにせよ、お盆ということばに象徴される何かがあるはずである。それは仏壇やお墓にお参りをするという行為をとおして、人間として生きることの意味を見出してきた歴史なのではないでしょうか。生きることの意味というと何か高遠な哲学のように思う人もいるかも知れませんが、それは生活をする私たちすべての足下にあることで、あまりに近すぎてかえって気づきにくいものであります。なにか宗教というと、まるで家族や社会や共同体から切り離したところに本来の私があって、そのような私を探し続けることを想像される方もいるかもわかりませんが、それは単に頭で空想した自分の姿であって事実はそのようにはなりません。むしろどのような人と出会ったかという、他との関わり以外に私自身などないのです。

 医者である養老孟司さんは医療の現場の問題として「病気の苦しみには何か意味があるのか。医師のなかには、そんなものには何の意味も無いとして、取り去ることを至上のこととする人もいるでしょう。しかし、実際にはその苦痛にも何か意味がある、と考えるべきなのです。苦痛を悪だと考えてはいけない。そうでないと、患者は苦痛で苦しいうえに、その状態に意味が無いことになって、二重の苦しみを味わうことになる。」といいます。人間としての苦しみや悲しみはそれを共感しあえる他者の存在の発見こそ、生きる意味をうなずく根本といえるのではないでしょうか。それは仏を礼拝して、「おかげ」という他者との関わりにおいてある自己への目覚めに連なってくるのでしょう。

 お盆はお仏壇やお墓をきれいにお飾りをして心静かにお参りをする、それが浄土真宗のお盆の行事の基本です。