光清寺通信 山河大地

      第33号  2002年12月

 




   最近は「恩」ということばがだんだん使われなくなったような気がする。そのことばを使わなくなるということは、ことばが忘れられていくことであり、そのことばが表す感情までだんだんわからなくなることになる。人間は自分自身の感情や意志をことばに置き換えることによってはっきりさせていく、その無限の繰り返しの中から人格を形成するのであるという。その人がどのようなことばをしゃべるかというところに人格の全体が現れるともいえる。
 さまざまな他の人との人間関係に疲れてくると、そこからいったん自分を切り離したところに本当の自分の姿があるのではないかと考えてみたくなるものである。人と人との関わりは絶対変わらないというものでもない。とはいっても他人との関わりなく私が存在するということはあり得ない話である。
 自分を知る知恵は「おかげ」を知る知恵ではなかろうか。本当に「おかげ」を知った人は、むしろ他の人に振り回されることなく、他の人との関わりの中で自分自身の役割や責任や意志表示がはっきりとできるようになると思う。


ひとつの法話

  「お寺さんは休みがないから大変ですね」と言われることがときどきありますが、それが普通だと私は思っているからさほど大変だとは思いません。忙しいことが続く時はさすがに休みがほしいけれど、それなりに暇なときもあります。ときどき今日が何曜日かがわからなくなって子供たちからからかわれることもありますが、曜日で私自身の予定が組まれているわけではないのであまり気にしません。

 ほとんど毎日、曜日に関係なく朝八時ごろから車でお月忌参りに出かけます。そういうことを続けていると、平日と土日とでは朝の様子が違うことに気づいてきます。土日の朝は車の渋滞がほとんどないだけではなく、平日に比べて時間がゆったりと過ぎていくような気がして、ときおりのんびりと犬の散歩などをしている人の姿が目にとまります。

 これはつい先日のことですが、三萩野という普段は交通量のかなり多い交差点がありますが、日曜日の朝、そこで信号待ちをしていると、一人の年輩の男性が犬を連れてのんびりと散歩をしていました。なにげなしにガラス越しに見ていると、どうも犬の歩き方がやや不自然な気がするのでよく見てみると、その犬にはなんと片方の前足がないのです。その犬は一本の前足と二本の後ろ足でやや跳ねるような歩き方をしながらも、ときどき電柱などに片足を振り上げてやるオス犬特有の例のしぐさ、マーキングをしていました。

 おそらく道路に飛び出して車にひかれたのか、そして動物病院でやむなく切断ということになったのかどうか知る由もありませんが、ようやく元気になって主人と散歩を楽しめるようになったことを喜んでいるかように見えました。犬がどのように感情をあらわすかは本当のところはよくわかりませんが、怒っている時と喜んでいる時くらいはだいたい尻尾の動きと全体の表情でわかるように思います。

 やや前置きが長くなりましたが、犬でも人間でも事故にあって痛い目にあえば、痛さに悲鳴を上げることはどちらも変わりません。しかし犬にとっての「苦」は痛みが癒えるのと比例してだんだん薄められていくのではないでしょうか。たぶんこの犬は、前足が片方なくなったことによる不自由さからくる何らかの、ケガをする前の状態とはたいへんな違いはあるにしても、ともかく現在はその出来事に何のこだわりもなく生きているかのように思われます。

 それと対比して人間はどうでしょうか。私たちが仮に大きなケガをした場合、肉体的な痛みそのものからくる「苦」は時間の経過と共に癒えてくるに違いないけれども、どのような経過をたどってその事故が起こったのかを考えないわけにはいきません。自分の過失からそうなったのか、誰か他の人〈加害者〉の過失によって起こったのかどうかを考えたり、もしあのとき人からあの用事を頼まれなかったらそもそもこのような目にあうこともなかったと考えたり、この程度のケガですんだことで良かったと思わなければと考えたりなど、心の中ははてしなくさまざまな考えが浮かんできます。これはおそらく自分自身の現在の状況に対して、自分がそのことをどのように納得し決着をつけたらいいかという問題が出てくるからです。

 人間はただ他の動物のように生きているのではなく、無意識的にも常に考え続けながら生きているのだと思います。何を考えているかというとそれは人それぞれで違うはずですが、やはり自分自身のさまざまな生き様をとおして、あるいは人生ぜんたいをあげて何かを納得したいからではないでしょうか。

 片方の前足を失った犬は、ケガをした時に「苦」が始まり、その傷が癒えた時に「苦」は終わるのでしょう。しかしこれが人間の場合は傷が癒えてしまって病院から出た時からむしろ本当の「苦」が始まるのかもわかりません。しかし逆に「苦」の経験の中から、人の優しさとは何か、幸せとは何か、自立するとはどういうことか、そして生きることの尊さとは何かを学ぶことができるのではないかと思います。